坂梨小学校 師恩の碑  (正門を入り左)


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師恩の碑


                   山路武夫
一 
  豊肥線の宮地駅から、坂梨小學校に赴任する松下先生を乗せたガタ馬車は、
 うす汚れた車體をギシギシときしませながら、
 阿蘇盆地の北を、東へ向かって走ってゐた。
  乗客は、先生と大きな荷物が一つだけ。
  ぴい、ぼうーと、のどかなラッパの青が春霞の野にとけて行く。

  大阿蘇の五岳は、右の車窓に、それと見上げる先生の眉を壓し、
 うらうらと晴れた紺青の空にそびえてゐる。
 その山据から、なめらかな緑のビロードひろげたやうに見えるのは
 牧草の畑であらうか。
 あざやかな黄の繪の具を落としたと見えるのは菜種の花にちがひない。
 馬車をとめて、耳をかしげたら、春のしらベを奏でる小鳥の聲も聞こえさうだ。
 が先生の心はたのしまなかった。

 坂梨村は、昭和四年、豊肥線が開通してから、それまでのやうに、
村を通る旅人もなく、商人は廃業する、
戸数は減る、青年は村を見すてて都會へ去った。

  さびれ行くばかりの村の學校、そこへ赴任することは、
 名誉でもなければ光榮でもない。
  これが、設備のととのった、立派な都會の學校へ行くのであったら・・・・。
  松下先生がさう思はれたとしても、誰が、先生をとがめることが出来よう。

  ガタ馬車が急に静かになって、こつ、こつーと馬の蹄のゆっくりと鳴るのが
 聞こえたら、「學校前です。」  と、馭者が箱の中をのぞいていった。
 先生は鞄をかかえて、阿蘇の煙にいぶされたやうな古ぼけた校門をくぐった。
 と、校門のそばまできた四五人の女生徒が、
 右を向いて、ていねいに頭を下げてかへって行った。 
 が、そこには奉安殿があるわけでもなく、目上の人らしい影も見えない。
 ただ、高さ二米、巾三十糎ほどの石碑がたってゐて、
 「師恩の碑」と深く刻まれてあった。

  「師恩の碑!」
  松下先生は、聲を出して讀んでみた。
 そして、それが何の碑であるかはわからなかったが、
  先生の心は師恩の二字に強くひかれたのであった。

二 
  「先生、校門を入ると左に、師恩の碑といふのがありますが、あれは・・・・」
  職員室へ案内されて、校長工藤昌久先生に赴任の挨拶をすませた松下先生は、
  「一日師恩の碑参拝」と書かれた月中行事板に目をそそぎ、
  いぶかしそうに訊くのであった。
  「お気附きになりましたか・・・・・」
  校長先生は、明るい瞳に微笑をうかべて、
 こころよく師恩の碑について語りはじめた。

   −大正二年のことであった。六年の受持の先生が御病気でお亡くなりになった。
  子供たちは、どんなに先生を惜しみ、歎いたか知れなかった。 
  皆は追憶の涙に泣きぬれながら、お小遣を出しあって、
  いっまでも、いつまでも先生の御恩を忘れまいと、
  校門のわきにあの碑を建て、裏に亡き恩師の名を刻んだ。 
   それから、この學校に、たとへ一日でも奉職された先生が亡くなられたと聞くと、
  必ずお名前を師恩の碑刻み、
  毎月一日、全校の職員生徒が一人のこらず参拝してゐる−。

  校長先生は、碑の説明を終ると、しみじみと、
  「實にありがたいことです。 
  こんな美しい行事をもつ學校は、おそらくどこにもありますまい。」
  といって話しつづけた。

  「私は、この學校に奉職したことを心から喜んでをります。
  出来れば一生この村の、禮儀正しく報恩の心あつい子供たちと苦楽をともにし、
 坂梨村の土となりたい考へでをります。」
  もの静かに語られる先生の一語々々が、
 何故か、はげしく松下先生の胸を刺すやうにうつのであった。

  「松下先生! あなたのお名前も、いつかは、あの碑に刻まれて、
  永久にこの學校の子供たちから参拝されるのです。」
  ハツと、松下先生は瞳を上げたが、すぐに頭をひくくたれてしまった。

  日本には二萬にあまる學校がある。 そこでは、二十幾萬の先生が、
 どなたも熱心に教へてゐる。 
  けれど、そのうちの幾人が、教子によってその名を石に刻まれて、
 死後もなほ心からの感謝と追慕の参拝を受けるであらうか。
  もったいないことだ。何という自分は幸福者であらう。

  「先生!校長先生!」
  松下先生は、清浄な歓喜に胸をふるはせながらいった。
  「私も、この阿蘇山麓の火山灰の中に、骨をうづめる覚悟で教壇に起ちます。」
  校長先生は、黙って、嬉しさうにうなづかれた。
  明け放たれた窓から吹きこむかぐはしいそよ風が、
 先生のあつい眼頭に、燃えるやうな胸に、こころよい冷たさを含んでながれこんだ。

三 
  一日の朝であった。
  三百四十余餘の全校の生徒が、
 黒い縞のやうに師息の碑の前にならんでゐた。
  碑の前には、咋日つんだ野の花が、
 ほのかな香をただよはせて咲きみだれてゐる。

  校長先生と、二人の生徒が、しづかに進み出て、うやうやしく禮をした。  
 と、先生も、生徒も、一せいにひくく頭をたれた。 
  そして、この山深い村に移り佳んで、
 村人のためにおつくし下さったいまは亡き恩師の霊に、
 あつくあつくお禮を申し上げ、その在りし日のなっかしいお姿を偲ぶのであった。
  しーんとした校庭! 聞えるものは小鳥の聲ばかりである。

  いつかは、自分の名もこの碑に刻まれ、かうして皆からお詣りしていただけるのか!
  先生たちは、限りない有難さと感激にうたれて、われ知らず涙ぐんでゐた。
  と、豊後境の連山の上から、金色の雲をやぶってふりそそぐ朝日の光が、
  師恩の碑の後ろに、み佛の背光のやうに輝くのであった。

  ◎大日本雄弁会講談社(現 講談社)刊 
    昭和十三年四月号 少女倶楽部掲載「我が校の誇」

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心の花たば


 阿蘇山のふもとにある坂梨小學校に赴任されたある先生が、
はじめて古ぼけた校門をくぐったのは、はつ秋の朝であった。
 先生は、ふと、門を入った生徒たちが、きちんと左をむいて帽子をとり、
ていねいに禮をしてゆくのに氣がついた。 
見ると、校庭の東に、『師恩碑』とほりつけた碑が、立ってゐた。

 何のための碑であるか、わからなかったが、尊い清らかな感じにうたれて、
先生も頭をさげて通った。 
 それから、先生は、校長先生にそのわけを、たづねたのであった。
 「あれは。」 −校長先生は、にっこり笑ってせっめいされた。

 「大正二年の卒業生が、大へん先生思いでしてね。 
先生の御恩をいつまでも忘れないようにしようと、
みんなでお金を出しあって立てたものです。
 あのうらには、ここにお勤めになった先生の名が、
一人のこらず、ほりつけてあります。 
 生徒たちは、来る時もかへる時も禮をしては、
今は學校においでにならぬ先生の御恩にまで、
感謝をしてゐるのです。 
 まい月一日の朝は、碑のまはりに花をかざって、
全校そろって参拝することになってゐます。」

 先生は、いつか頭をさげて、きいてゐた。 
 いまに、じぶんの名も碑にきざまれて、
いつまでも生徒たちの感謝をうけるのかと思ふと、
からだがふるへるほど心をうたれた。 
そして、「力一ぱい、この村の手どもたちにつくさう。」 と、かたく心にちかったのであった。

◎大日本雄弁会講談社(現 講談社)刊 
 昭和十五年四月号 少年倶楽部掲載「感心な話・氣もちのいい話」

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■明治42年(1909)大日本雄弁会として創設 後、大日本雄弁会講談社(現 講談社)と
改名、大手総合出版社として雑誌「キング」「少年倶楽部」「少女倶楽部」等9誌を月刊、
国民の誰もが愛読する雑誌黄金時代を築く。 
その影響力からして明治、大正、昭和を通じて私設「文部省」といわれる程であった。■


■資料 一の宮町教育委員会 町史編纂室 ■