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豊後街道 坂梨宿へ

    豊後街道 坂梨宿のホームページをご覧頂きありがとうございます。  坂梨のことを少し紹介します。
■坂梨の事
現在の坂梨は人が暮らす町として、豊かな自然の数え切れない恩恵に浴して大変恵まれた環境にあります。
 生活に欠かせない水も、豊富な阿蘇東外輪の伏流水で美味しく、安全で、その上大変安い。
 ミネラルウォーターで入浴し、洗車や掃除や散水に利用しています。 飲料水の確保に窮する方々からすれば羨ましがられる程贅沢に日々の暮らしに使っています。
 美味しいお米が採れる田圃もあります。
 阿蘇五岳山麓にあり古来より先人から連綿と受け継がれた天神橋(めがね橋)、木喰上人作子安観音像、神社やお寺等の歴史的文化遺産も有ります。
 そこに暮らす人々は温厚で人情味あふれて、昔から使われている屋号で呼び合い、旅人に対しても暖かく迎入れることが出来る人々が多い地区です。
■宿場町の事
 古来、宿場町は街道筋には至る所に点在していたが現在その面影、風情といったものが残っているところは僅かになりました、特に九州にはすくなくなってしまいました。
 現在、宿場の風情を多く残しているのは中部地方の中山道木曽路(国道19号沿い)が特に有名でしょう。 中山道は江戸時代には五街道の一つに数えられ、江戸日本橋から上野、信濃、美濃の諸国を経由して東海道に合流した。  木曽11宿を経ため木曽路、木曽街道とも呼ばれます。  岐阜県中津川市から長野県へと県境を越えたところにある馬籠宿。  そこから馬籠峠を越えたところの妻籠宿、それから北へいくつかの宿場をすぎると奈良井千軒と呼ばれ栄えた奈良井宿等が現在でもその当時の建物や遺跡を多く残していて、その雰囲気を楽しむため多くの人が訪れています。 東海道にも僅かに関宿等が町並みを大切に保存し再生したり復元に取り組んでいます。
■坂梨宿の事
(「さかなしのしゅく」、「さかなしじゅく」と称する)
 かつて坂梨も豊後街道の宿場町として栄えましたが、昭和の初め鉄道豊肥本線の全線開通と共に旧来の宿駅としの機能を終え、街としては衰退し繁栄も過去のものとなりました。
 坂梨は宿場町としての家並みや趣もは時代と共に殆ど無くなりましたが、幸いに国道が豊後街道を拡幅することなく、別に整備されたので街道そのものは一部を除き当時のまま残されています。
 
 江戸時代より以前、加藤清正公が豊後街道を整備した後、参勤交代は勿論、行商や荷駄を運ぶ旅人が多く往来し、関所としての機能を持った番所もあり、高森方面へ向かう野尻往還、日向往還の追分けでもあり、旅人宿(旅籠)、木賃宿、酒造業、呉服雑貨、薬屋、諸請け、問屋、医者等の屋号を持った家々が50軒も軒を連ねて、近隣の村々には坂梨町として親しまれ大変栄えていました。
■当時の坂梨宿を再現してみると・・・
 『肥後熊本のご城下から豊後街道を東へ13里、大分から行けば豊後の国境から西へ約3里半のところにその宿場はあった。 坂梨の宿内を抜けている豊後街道の長さは、十丁(約1100メートル)であって、その左右に人家が密集している。
 宿場の東寄りの入口付近、街道が直角に曲がった一里山と地元で称されている所に番所(関所)があり、道行く人を取り締まっていた。 この番所は女性の出入りには特に厳しく女改め部屋まであった。 (女改め番所と云われていた)  宿場の中程に参勤交代時に大名の休憩場所や藩の重臣が止宿するお茶屋があった。

 宿内の家々の屋根は茅葺きか板葺若しくは杉皮葺といったところであるが、これらのほとんどが屋号を持つ商家であって、主な相手は旅人と周辺農家であった。

 宿屋(旅籠屋、木賃宿屋)、料理屋、米屋、酒屋、煮売屋、荒物屋など、 それ以外に宿民と周辺農家の日常生活に必要な商工店が勢揃いしている。
 米穀屋、八百屋、魚屋、乾物屋、豆腐屋、菓子屋が食べ物を売っていた。
 衣と住は、材木屋、畳屋、建具屋、屋根屋、経師屋、呉服太物屋、小間物屋、染物屋、下駄屋、足袋屋、綿打屋、細工物屋がある。  職人であれば大工、左官、トビ職、鋳掛屋、石屋、仏師屋、髪結床と欠けるものはない。
 ほかに造酒屋、精米所、質屋、薬種屋、植木屋、炭屋、鍛冶屋、桶屋、医者といったところが軒を連ねていた。
 
 宿場の朝は早い、夜明けと共に旅籠の玄関先は新しい草鞋を履いた出立の客でにぎやかになる。
 豊後街道を西へ向かい熊本方面へは次の宿場内牧へ向けて商人が大きな行李を背負って朝霧の中を歩き始めた。
 日向往還、地元では野尻往還とも称している脇街道発端の追分けから古町を抜けて箱石峠を目指す旅人もいる。
 関所の門が開くのは明け六ツ、夜明けの早い夏は、先を急ぐ旅人にとっては遅いと感じる時刻である。 
緊張した面持ちの旅人が、番所役人に通行手形を渡している。
 雑貨屋の軒先には束になった真新しい草鞋がぶら下がり風にゆっくり揺れて、その下で新しい草鞋に履き替えた旅人は又歩き始める。 日も高くなると宿内の童達が街道に出てきて子犬を追い回したり、近くの川に小魚を捕りにでも行くのか笊を持って数人で砂埃を巻き上げて駆け出している。 荷駄を背負った牛馬も時折行き交う。 近隣の農家がとうきびやヒエ、粟、ソバ、米等を水車を動力とした製粉、精米所に持ち込んでできあがるまで座り込んでのんびりと話し込んでいる姿もある。  豊後街道随一の難所をすぐに控えた宿場には、無事下ってきて安堵の表情をした者や、これから向かう顔には不安と緊張が入り混じった顔をした者とが行き交う。

 道の両側の水路には清水が流れ、旅人はこの水に手ぬぐいを浸し汗を拭たり茶屋の店先の縁台に越を落とし、お茶と名物の万十で一息入れたりしている。 宿内を通り過ぎる風が蕎麦屋やめし屋ののれんや旗竿をたおやかにゆらしている昼下がりであった。

 夕刻ともなると旅籠の客引き女の声や、旅籠を選ぶ旅人とのやりとりで通りはさらに賑やかになる。
 日が落ちると旅籠や商家の常夜灯や軒灯にほのかな灯りが入る、煮売屋の軒灯の明かりを頼りに、暖簾をくぐり近所の働き者がやってきて、見慣れた顔や旅人を交え自慢話や旅の話に花が咲き、一杯の酒に一日の疲れを癒している。 この宿場には、造り酒屋が3軒もあり、良い米とおいしい水で名物の地酒は、此処に泊まる者達にとって大きな楽しみであった。  ・・・』
 
 当時の坂梨宿はこんな風景だった事でしょう。
■これまでとこれから
 坂梨の宿場としての町造りはこれまで、そこに住む人々が仕事や利益を抜きにして、宿場會の会費と住民個人が資金を出し、汗を流し、郷土の歴史を学び、住民と宿場會の相互協力で、亀の歩みよりゆっくりと、それでも止まる事無くやってきました。
 今、坂梨には常夜灯や軒灯が40基以上設置されています。 水車も2基あります。 全部木製です(明かり窓は紙ではありませんが)から時が経てば風化し朽ちて行きますが、その変化も楽しみたいと思います。
 宿場として栄えた当時はこんな立派な常夜灯ではありませんし数も僅かだったでしょう。 
でも坂梨宿場の風情を少しでも残したいとその取り組むシンボルとして設置し歩んで来ました。
 坂梨の歴史を学ぶ内に歴史上の有名な人物も多く歩いたり宿泊したりしていることが次第に判ってきました。
 伊能忠敬、高山彦九郎は宿泊、新撰組ゆかりの伊藤甲子太郎は昼食を摂った記録もあります、勝海舟が坂本龍馬と共に歩いてもいるようです。
 これからもいろんな面白い発見が有るかも知れません。 
 さかなし宿場會は、これからも、坂梨を大切にし、誇りを持って、ゆっくりでも、夢を見続け、楽しく歩き続けたいとおもいます。
 
 常夜灯や軒灯の並ぶ格子戸や鎧壁、犬矢来を持つ時代を感じさせる建物、生け垣や板塀、誰でも飲める水場もあり清水が流れ、そこに住む人々と言葉を交わし、通りの縁台で時の過ぎるのを忘れておしゃべりしたり、のんびりと宿場通りを散歩すると人々の楽しい笑い声や子供の明るい声がいつも聞こえてくる。
 そんな風情と人情が今に残る坂梨。 
 ホームページをご覧になったら、町並みをぶらりと歩いてみては如何でしょう。
 きっと新しい発見と、出会う何かがあります。
■今後も、このホームページは随時更 新して参るつもりですのでどうぞお立ち寄りください。
   また、ご意見もお聞かせください。■