平成18年11月 第89号
十月例会報 十月十三日(金) 七名
お客様 一の宮商工会長山部様
●会長挨拶
本日はお客様をお迎えして開催します。 事務局が不在で、勘定方も少し遅れますが十一月の事業につきご審議願います。
●審議結果
1、11月滝室坂除草清掃作業の件
日 程 11月12日(日)8時30分
集 合 宿場会所
終了後 11月例会実施兼作業慰労会
午後5時頃から
装 備 刈り払い機、軍手、釜、軽トラ
会で洗剤、タワシ、クマデ準備
2、12月 宿場ギャラリーの件
例年通り、第一土日の2日、3日に開催
実行体制は昨年を踏襲
早めのポスター作成と展示参加を呼びか ける。
宿場会忘年会と12月例会も2日目の日曜日に実施したい。
場所や形式は女性会員の意見をお聞きした上で11月の例会で決定する。
●報告
1、豊後街道振興会主催 肥後(豊後)街道地域振興フェスタin鶴崎 参加報告
10月28日(土)開催 参加者会長、行動隊長、勘定方、事務局
10時に会所を発ち、豊後街道を行き犬飼で国道10号、県道を使って正午前に鶴崎着公民館で鶴崎の会員が準備してくれたダゴ汁とおむすびの昼食を頂き、古銭や古文書、蒔絵等の展示物を閲覧。
大津町の歌が歌手前川清によりCD化、会場で繰り返し流されていた。 13時30分からシンポジュームが開始された。 会場は10名以上の聴衆でいっぱいになった。
オープニングセレモニーとして「劔八幡宮渡り拍子」が披露演奏された。 リズムカルで力強い太鼓と笛の音が会場に響き渡った。渡り拍子とは御神幸の先払いとして行われる神儀。
県知事や市長の挨拶の披露、来賓に県会議員や市会議員が数名参列
「勝海舟・坂本龍馬も通った街道と風土を語る」がシンポジュームの課題
パネラーは佐藤光洋(NHK学園古文書講座講師)、甲斐敬一(大分県銃刀法類登録審査委員)、山﨑国夫(鶴崎商店街連合会長)、辻野功(別府大学教授)、進行担当松本寿三郎(熊本大学名誉教授)
各パネラーが10~20分講演し会場からの質問等に答えた。
佐藤氏は豊後街道はいつ頃出来たか。
天文16年(1547)筑後国山門郡鷹尾城主田尻伯耆守親種から子息鑑種が家督継承にあたり大友義鑑の「継目安堵状」受領のため府内に参府したがこのとき通行した道が近世の豊後街道として整備された。 その後慶長6年(1601)肥後を与えられた加藤清正は街道を、鶴崎、野津原、久住の飛び地と共に保護と整備に尽力した。
甲斐氏は大野川の砂鉄による豊後刀を熱く語る。
山﨑氏は町おこしを語る。
辻野氏は勝海舟のファンである(事務局同)
勝海舟は幕命により坂本龍馬等を供として文久4年(1864)肥後(豊後)街道を長崎まで旅をした。 長崎丸で佐賀関に上陸(佐賀関の寺の住職による絵と船名が残っている)、翌日鶴崎泊ここで「大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴崎」と歌を詠む。 一行は肥後領の石橋や人々の豊かさに感嘆しながら旅を続け、野津原でも歌を詠み、坂梨を経て内牧に投宿した。(勝海舟日記による)また、今市の石畳は日本の宝と賞賛。
松本氏は肥後側からみた豊後街道とその周辺の歴史を語る。
加藤清正は天正16年(1588)6月小西行長と共に13日大阪を発ち23日鶴崎着、27日隈本(後に熊本)入城、行長28日宇土入城
島津義久阿蘇路通行の許可を清正に求む(天正19年4月17日)
慶長6年(1601)2月清正、豊後三郡(海部、大分、直入)を宛行わる。 慶長10年2月18日加藤佐平太、佐賀関の豊後速吸社に社領寄進。
寛永9年(1632)12月6日細川忠利小倉を発ち豊前街道から6日熊本城に入り、中津にいた細川忠興12月16日鶴崎を出発し豊後街道を行き20日熊本城に入る。
このときも肥後藩領に入ると道が良くなったと手紙に残す。
肥後路(豊後街道)を辿るのは公用(参勤交代)と男と急ぎ(江戸からの飛脚等)が多かった。 公用でない場合は宿場が使いにくい(参勤等の公用向き)、肥後の山坂が険しい(滝室坂、二重の峠)の理由で敬遠された、しかし大阪からの旅や物資の流入は豊後街道が使われた。 鶴崎は九州の多くの諸大名が利用した(船懸かり)
大変参考になり面白い話が聞けた。
その後会場を出て、清正公ゆかりの劔八幡宮、法心寺を見学、最後に毛利空桑遺品館(歴史資料館)を見学して散会した。
鶴崎の人々の加藤清正に対する熱い想いは重く深く連綿と受け継がれ今でも祭りや史跡を通して語り継がれているのが感じられた。 今残っている三つの主な祭りはすべて清正公にまつわる祭りである。
6月から準備に入ったと云うだけあって内容等も立派なシンポジュームだった。
午後8時過ぎ坂梨宿帰着
●今月の審議事項
一、12月開催 例会と忘年会の件
開催日 12月3日(日)
場所
時間
二、平成19年1月新年会例会の件
開催日 1月13日(土)
場 所
内 容
●11月例會案内 11月12日(日)午後五時 場所 宿場会所 於
●坂梨宿を駆け抜けた歴史上の人物
●幕臣勝海舟と坂本龍馬
皆さんご存じ幕末の英傑両人が坂梨宿に足跡を残していた事実を発見したので掲載します。 他の者では絶対に不可能な功績により、その後の日本を西欧列強国に肩を並べるまでに発展する事が出来る基礎を築いた二人です。 二人の存在が無ければ日本は百年遅れたとさえいわれます。
徳川幕臣海軍奉行並の勝海舟は幕命により長崎へ向かうため坂本龍馬を伴い文久四年、一八六四年二月十五日佐賀関に上陸(船名長崎丸)後十八日久住泊した一行は翌十九日滝室坂を下り坂梨を通過して内牧泊。 「海舟日記」によると滝室の峠に立ち次のように記している「山上より阿蘇嶽を見る。この嶽に並び立ちたる高峯あり。猫が嶽と云う。人跡到らず。山の頂上、大石、剣の如く成るも直立す。妙義山に比すれば、更に一層の希峯なり。」
十九日の日記
内牧に宿す。 この地もまた山中、山泉自由なり。
惣て鶴崎より此地まで、土地厚脾、熊(本)領は大材甚だ多し。 此地より街道杉並樹、数十年の大林、左右に繁茂す。我此地を過ぎて、領主の田野に意を用いしこと、格別なるに歎服す。また人民、熊本領にして素朴、他国の比にあらず。・・・・略・・・ 熊城下新町の本陣に宿す。 侯より十文字の鑓刄を賜う。 我が門の藩士、数人来訪。横井先生へ龍馬子を遣る。
翌二十日元治と改元
此の後一行は島原へ渡り長崎へ向かう。帰路も豊後街道を辿ることになる。坂梨宿は四月八日通過した。 以下同日記より
六日 渡海、熊本着、肥後候より使者あり。
当今、形勢如何、且、海外の事情を問わる。 答え云う、外邦人は時宜、道理に明らかなり。故に逢接の際、我虚言を以てせず、直言飾らざれば、必ず談判かつて苦心なし。 皇国人は皆虚飾、且、大義に暗し。天下の勢、回旋すべからず、と云々。
龍馬を横井先生へ遣わす。
横井先生の親族三人入門、同行す。
四月七日出立、内牧に宿す。
八日久住着。 細川隈之助公子に途中にて逢う。聞く、京師の諸侯、大抵帰国すと。
以上 勁草書房刊「勝海舟全集十八」(海舟日記)より抜粋。
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肥後(豊後)街道地域振興フェスタin鶴崎
会場に熱心な聴衆でイスが足りないほどでした。

だご汁等のサービス(有料)


劔八幡宮

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