梨陽校から明治末年
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三、梨陽校から明治末年まで

 

 明治二十年十日桜町の現在地に、今の北舎が改築されました。これは隆成校を移転したものといわれます。階下三室、二階二室で校名も尋常梨陽小学校と改めました。

落成式の祝辞の中に「土地高燥にして・・輪奐の美なしといへども、窓はビートロにして・・・という名文句があったそうです。飾りつけはないが窓にはガラスを入れて…・という意味です。ガラスを使った建物は、これらが初めてだったらしく珍らしがられました。

                                                                          

床高くして天丼低く、根太の周りは一抱え半もあり、堅牢そのものであります。玄関の軒の中央には、校名にあやかって梨の彫刻の飾りをつけたり、いかにも明治の匂いが残っています。八十五年前の明治はすでに遠くなりましたが、わが坂梨校は当時もっともハイカラな、学校建築だったのです。その頃中央は鹿明館時代でもあったのでした。二階の梁の用材の見事とさとわずかな反り、床板の巾の広さなど今でも見ることができます。村の私たちの大切な文化財です。全国的には長野県松本に、明治九年の洋風建築で有名な開智小学校や、山口県などに学制当初の校舎が残っていますが、本県では坂梨校が最も古くしつかりしていると思います。屋根うらも二重になっていることが瓦ふかえの際、後で分りました。

 この校舎建築は大分県鶴崎の大工の手に成ったものです。鶴崎はもと肥後領、古くからこちらに入ってよい仕事を残しました。参勤交代の藩主はここから船出しています。鶴崎大工と地元大工との間に当然のこと感情の対立があつたということです。村も充分の監督をしたのでしょうが、明治職人のかたぎを偲ぷことができます。

 昭和三十二年に文部省の稲葉政務次官と、県施設課から情況調査に来て、この建築の堅牢さにおどろきました。殊に用材の選定に注意したあとがあるが、これは後に中舎南舎を建てるについても、引きつがれていきます。 話はとぷが、政府は明治十九年の暮れに、閣令をもって、小学校職員の職制というをきめ名称及び待遇を規定し、県では二十年二月に学校長・訓導・授業を定めました。これまで校長というものはなかったのです。                                       

 初代校長はお茶屋の市原源六です。この人は明治二十年の、熊本師範卒業で最初から校長を勤めたことになります。このことは最近の新しい発見でした。

 

 二十一年には、先年県の近代文化功労者の表彰をうけた松村辰喜が、これまたニ十一才の若さで校長として赴任しました。もともと松村は内牧の人、村内に居住して四年半勤めここで教職を辞し、その後は内牧から二重峠への道路工事の現場監督となりました。二十七年には朝鮮に渡って、また小学教師となり安達謙蔵の漢城日報という新聞にも関係しています。そして二十八年十月びん妃(ぴんぴ)事件に参画して広島に投獄されました。出所して熊本に帰り、実業界に入り、更に大熊本市の実現に尽力します。市会議員となって十一か町村の合併に成功し、続いて上水道などの三大事業にのり出しますが、生涯かけたのは大阿蘇国立公園の実現でした。昭和に入って国立公園中央委員、六年には県公園主事となつて登

山道路完成、そして九年十二月国立公園の指定をみたのでした、十二年七十才、波乱に富んだ一生を終ります。渡鮮の際に知り合った与謝野 鉄幹が、大正七年熊本に来たとき、

  なつかしや肥後の辰喜は二十とせの

  昔も今も世をなげく友

 歴代校長中、もっとも特異な人といえましょう。

 

 明治二十五年、枚名は坂梨尋常小学校と改められます。三十五年には坂の上部落に学校林床地を求めていますが、これが現在の学校林のはじまりです。菅、市原両家をはじめとし、先見の明をもった人たちの助言などによるも のと思います。この両家は去る十年の暴風火災の時に、大いに難民を救済し、それ以後も公共のために、格別の援助をおくつています。四十一年には虎屋菅家より学校基本金に一千円の寄付がありましたが、これは当時の米価からして約百七十俵に相当します。

これらを資金としたものでしょうが、四十二年には学校林を拡張して、現在は約五町五反と沿革史K記されています。昭和十二年の南舎新築には、この山の材が大いに役立ちました。われらの先輩の炯眼と感覚におそれ入ります。

 学校規模は、四十一年には五学年五学級、翌年には六学年六学級となって、現在のすがたに近くなりました。手狭まになった学校は明治も末に近い四十三年四月より中舎建築に取りかかり、沿革史には 四月十五日より、各部落使役に出て、栗石あつめ、地ならしを数日にわたり行なうとあります。

 建築委員には、練達の士、菅、市原があたって、六月二日の創立記念日に上棟式、翌年五月落成式をあげました。この年四月より校長は、西町の後藤 常信です。これで五教室がふえ、運動場も広まり、学校らしく面目を一新したのであります。以後約三十年間、三百前後の児童を収容してきました。この校舎建築の間上級生は浄行寺や松山公園内の武道場に、かり住まいして授業をうけました。

 建築期間中、両建築委員の監督は手きびしく、用材の一本一枚に至るまで注意し、格外品で某の家が建ったと いわれたものです。

 中舎の東面北面は石垣ですが、直線に曲線に面をそろえ、通路にあたる曲り角は、石が丸味をもっていました。平行に並べられた石段、地形の都合で扇状をなした石段など、よく見れば美しく、細心の注意がはらわれています。

                                                        

 後藤常信は、四十四年より大正初期にかけ三年間校長として、西町から自転車通勤をしました。自転車の珍しい頃でした。私はこの人の亡くなる前年の暮、寒い日に訪ねて、当時の様子をききました。 四十三年家庭の都合で、熊本市山崎校を辞めたのを、視学は三顧の礼をもって(本人のことばのまま)坂梨校長に任じたのでした。赴任にあたり熊本では「坂梨にはカブト被りが多いから・・・と注意されたといいます。

村内に旧家が多く、封建の色濃く残り、そして教育に対して具眼の士がいることをいったものです。彼は学校経営に全力を傾けました。この彼の経営については理解も深く、大いに援助の手が伸べられたのでした。

 「今なら、あんな風には行くまい」というあたり、職員の指導については、随分専制独断の面もあつたようです。後藤の校長歴は坂梨だけでした。大正三年、突然錦野校に転ぜられ、赴任後直ちに辞職しました。私に「あの時は、もう、一、二年坂梨にいたかった。」ともらしましたが、まことに気骨稜々たる老人でした。

 最後に一言、筋からは多少はずれるが、話の種に沿革誌の明治四十三年五月十九日にふれます。まだ記憶のある人も多いでしょう。

  ハレーすい星 近日点を通過し 地球はその尾核中に包囲され、幾分変更あるべしとのことなりしも 終日晴天にて_何ら異変なし国もむらも、まだ余裕の

あるじだいでした。