培達堂と明治学生群像
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四 「培達堂」と明治学生群像など

 

明治を終るにあたり、ぜひふれておかねばならぬことがあります。

 碩学園田太邑のひきゆる「培達堂」と、明治中期に青雲の志を抱いて、東京その他に遊学した一団の学生のことです。

 太邑については前述した村の四塾の中の「園田塾」であらましをのべました。村内の永井塾に学んだ彼は、十七才で熊本大江村の元田永の五楽園に進んだのでした。

同門に土肥樵石、らがいました。(ひそかに思う。師永井直方は太邑の学才をもて余し、実家の巨頭永孚に推選したのではないか。子弟を見抜く師の眼力もさすがである)役犬原出身の郷土史家山本十郎.(故人)には大著「肥後文教と其城府の教育」最晩年には「阿蘇魂」 の作があります。山本の父と西河原の高宮広雄(後に県議と園田の三人は、阿蘇政友会の三羽鴉といわれた進歩派の仲です。十郎は青年教師時代に、よく園田家に出入したこともあり、天草二江小学転任については、別れの詩をおくられている程であります。太邑については十数年来私

も、その足跡を追ってみましたが、どうしてもさだかでない点があります。「阿蘇魂」の中の園田太邑と、門弟の林田雲梯(亀太郎) が、昭和二年に雑誌「文芸春秋」に書いているものと、メイの市原ニエの談などを総合するより他に手はありません。

                    

 永孚の五楽園に入った太邑は、学問識見を高く評価され直ちに塾頭に推されました。明治四年永孚(東野)は宮中の侍講に出仕のため上京しました。太邑らはある日、師のあとを追ったのです。それから神田猿楽町の元田邸にいて彼の薫陶をうけ、師永孚より太いに愛されて遺憾なく彼はその文才を伸して行きました。在京の期間は、 そう長かったとは思われません。なぜなら竹崎茶堂の本山の日新堂に入ったのも明治四年であります。この塾にも県下の秀才が群がっていたのですが、わが園田は一歩もゆずらず、頭角をあらわし南寮の教頭となって精励し

ました。十年茶堂の没後は、墓畔に仮庵を結び太邑らは喪に服したといいます。三周忌の建碑に際し彼は「懐師歌」を捧げましたが、その中に「墓門、師をなつかしみ春風に二立つ」の句が見えます。

 茶堂は死にのぞみ、一子元彦の養育を太邑に託しました十年秋戦火ようやく鎮った坂梨に元彦はじめ、林田亀太郎、高木第四郎、竹崎早雄らを連れて、開かれた家塾が「培達堂」です

                                                                          

。太邑は二十四才となつていました。塾舎は長屋門の二階で八畳と六畳の二間が、明治の晩年頃まで残っていたといいます。培達堂の村内に及ほした影響を調べたのですがはっきりしたことは分らず、おそらく之は無関係であつたろうと、私は断定しています。すでに新時代のいぶきを吸収して、熊本から馳せつけた

俊才たちと、その頃の村の青年が、まじわるすきは到底なかつたのではありますまいか。また開塾の精神が、村を相手としたものでなくて、茶堂なきあと、門弟たちは太邑を唯一のたよりとして、参集したことでもあるのです。卯の鼻の一角は一時学徒の山遊びにわいたものでした。

 然し太邑の行動と、培達堂の気風は、間接的に村の青年を刺験して、後年大挙して東京に進学したものと思います。

 今ここでは雲梯林田亀太郎の文章により、太邑と培達堂を偲ぷことにします。雲梯の「予の詩と丈章」の全丈は、別項「村を描く史学作品」の中におさめました。

  (前略し此年の秋南寮の園田太邑先生が阿蘇の坂梨に培達堂という義塾頭となった、この時予は十五であった。此時代に於ける感化は予の一生を支配する程強いものであった。恰も嘉悦先生(氏房)が本山村に広取校といふ英語の塾を開かれたので、翌年ニ月予は培達堂を辞して之に入り、而して漢文学は之を村井貫山に先生に学んだ。

                                                   

  園田先生の文章が雅麗なるに反して貫山先生のそれは至て地味である、予は短日月の間に此両極端の教育を受けた。予の園田先生より受けたる感化が如何に大なりしかを示する為、当時予の作に対する貫山先生の評三句を掲げてみる。

 曰く才気卓絶、之を作る篇々之に成る故に早辛の弊を免れず。曰く子、才に任せて筆を執り徒らに対句を択み華を求めて実質を失う。曰く林田君文章の才群を越ゆるものあり、只惜しむらくは強いて 文華にせんとすと。

 

この先に雲梯は、培達堂にいる間に漢詩を作ること を覚え、太邑より見てもらっていたこと。ところが明治十二年、嘉悦を通じて太邑から、作詩を厳禁する旨の通知が来たことを書いています。太邑はこういうのです。 林田は詩の天才である。・・・併し林田を詩人にする は惜しい、聞くが如くんば林田が従事してある学課は、通常の人が全力を挙げるも尚全きを期す可からず、然るにその困難なる学課の時間を割いて作詩に眈るは林田として二兎を追うに均し、願くは林田をして詩人たらしめるより社会に活動せしむるの人物たらしめたい、これ林田の為なり、邦家の為なり。・・・予は作詩に少し苦心もない、然しそれ程に思召すならと、先生の芳志に従い断然詩歌含英をなげうち去った。(以下略)

 

 培達堂の経営方針のあらましでも、うかがい知ることのできるものは、これくらいです。林田に対する心づかいは、そのまま門弟の個々にも通じるものでありましょう。師自らも二十六、七才の頃であるが、人物の洞察力には卓越したものがあり、教育者園田の真面目を見る思いがします。作詩を禁じて学問にはげむよう注意したのは、さすがに実学の徒であります。彼林田は師の期待に応じて精励ののち、二十二年東京帝大を出て、法制局参事官、衆議院初代書記官長などを歴任し、院の生字引と呼ばれたものです。私事にわたるが、彼の活躍もっとも

華やかであつた頃、私の父は東京にあり、明治法律専門(現明大) の.学生であったが、時に帰省して上京の際には太邑から林田への手紙をもたされたのでした。培達堂の終末は、今のところ知るすべきもありせん。園田 太邑は学者であると同時に、蘇門と号して漢詩を千里軒牛歩、茶魚、鉄笛などを称する美濃派の俳人でもありました。しかし惜しむべし、彼には一冊の家集も著書もありません。その書は今日も点々と残ってはいるが、諸作品は散逸しています。その中で、お茶屋市原家には次の秀作が蔵されてれています。二十四年一月元田永孚(東野)は没しますが、その頃太邑はその身辺にいました。

 

   故東野先生三十年祭に追懐し奉る

源邈として洛洙より来る

  回想す光風渊洙霽月開くを

  乾徳深く培う功第一

  今より斯の道いよいよか恢恢

 

 師東野にもっともほうふつするは、阿蘇の園田であると、熊本では生前いわれました。東野は次の侍講を園田にゆずろうとします。衆目の見るところもそうでしたが、病身を称して受けませんでした。

 東野は園田を伴ない箱根に吟遊して、詩を相詠じました。東野は「園田秀才の故に韻に和す」と賛をします。まさに水魚の交わりというべきでしょう。私は晩年の園田を知っているし使いにもやらされたこともありますが、宗匠 頭巾をかむつた、如何にも俳人らしい風貌をしていました。

 

昭和三年十月、七十五才をもって世を去りました。明治三十年代は、村の青年子女が異常な向学心を燃やして、次々に上京し、大学はじめ職業教育を受けた時代

でありました。このことについては、父からよく開かされたものであったが、調べる中にその事情が次第に明らかになりました。 園田太邑はとにかく村の東京遊学第一号で、二度も師元田のもとに参じています。続いて上ったのは糸永祐順でこの人は明治十六年の熊本師範卒業で、学校勤務は黒川村に一年だけ。明治法律専門学校(現明大)に進み、三十数年にわたって判事・弁護士となり長崎・鹿児島などで勤めました。

 次には太邑の二男春耕(明二一小卒)が東京帝大に進みました。遅れて明治法律専門に人つた私の父豊作(明二一小卒)は春耕と坂梨では村級生、同部洛でしたから東京でも往来していました。春耕の下宿では古瓦をところせましと並べていたといいます。論文資料集めに奈良に行ったりしたが、卒業を目前にして茅が茅ヶ崎南湖院で没しました。

太邑は愛児の療養の姿を油絵にして偲んだということです。父は学校かたわら農商務省なとでアルバイトしつつ上野図書館で猛勉強の未、辛うじて司法官試験にパスしましたが、それは一通りのものではなかったようです。

一貫して約四十年の弁護士生活でした。春耕の妹長女のチホ(明二八小卒)、赤星クマ(明二六小卒)・市原ニエ(明二七小卒)と共に上京します。

三十八年のことです。三人は女子美術学校に進みますが、チホも亦在学中に病没

しました。

 私は昭和四十年の夏、父が残していた当時の写真をもって、生き残りの一人市原ニエに会って、かなり詳しい様子をきいたのでした。ニエは二十三才で、刺しゆう科に入学。四十一年に卒業して、各地の女学校を廻りその間に七年間を母校に勤務しています。当時すでに八十四才、老衰の姿は痛々しかったが、さすがに話の中にも教養の片鱗がうかがわれた。この人の美校在学中に、坂梨校に贈った作品「秋果の図」は、今日も尚色あせず、日本画を見紛うばかりの秀作です。

 

ニエは作品のことをようやく思い出しました。 赤星クマは編物科に入って、優等で卒業したとニエは友人をたたえます。帰村して坂梨校の教師となりました

が、病没しました。市原ヤツ(明三一小卒)は女子大英文科を卒業しました。以上の四女性は皆親類筋にあたる一群で、彼女たちが東京に着いた時は、村出身の先発学生たちが迎えに行つて、服装・髪かたちの違いを今更のように感じたとい

うことです。

 このグループより早く上京して、女高師の裁縫科を出たのが高木マツ 明二七小卒)、卒業後竹田女学校勤務中に没しました。以上五人の女子が早い時期に東京に出て、それぞれの学校に進んだことは、非常に珍しいことです。その頃は女性軽視の風が強く、よそでは兄は大学に行っても妹は小学きり、というのが普通でした。

                                                                                                        

 写真の中で最も青年らしい気慨の見えるのは、桜井又男(明二二小卒)です。彼は東京外語学校でロシヤ語をおさめ、陸軍参謀本部の嘱託となり、日露役では通訳官として従軍します。後には陸軍大学教授に任ぜられたのですが、惜しくも大正九年病を得て、四十二才の若さで没しています。

 市原助雄(明二二小卒)は専修大、市原 甘(明三〇小卒)は早稲田を出て村に帰り、公共事業に尽すところ大きく、助雄は坂梨農協の創設者であります。

 これら学生群像の中で、当時年も若く今尚第一線で活躍しているのは、日蓮宗の藤井 日達(明二九小卒であるが、ここでは詳細を略して、別項「同窓生点描」で紹介します。まことに.息の長い宗教生活であります。写真には十六人いるが、ニエはすべてを思い出すことは出来ませんでした。

 この頃を最盛期としますが、その後も断続的に村から青年が、東京に京都に学問に対する意欲を燃やすのです。

 東京帝大には少しおくれて、藤井祐人(明三二小卒)市原分(明三六小卒)藤井房雄(明三七小卒)の三人がいきます。祐人は農科卒業後は駒場の農大に久しく勤め、わが国耕地整理の権威でありました。分は法科を出て、名古屋・東京・横浜の検事、大審院でも思想方面の検事を担当し、その間に奇しくも、非合

法時代の共産党の蔵原惟人(西町出身・「芸術論」の著は有名)を調べ、両者その奇遇に驚いたとききます。戦争の末にシンガポール司法長官となり、二十年七月に帰還、村で弁議士を開業しましたが五十九才で病没しました。

 房雄は法科を卒えたあとは専ら三井銀行一本で、現在

も東京に暮しています。

 変り種では馬場の人佐藤富雄(明三十二小卒)竹田中学から上海の東亜同文書院に進み、後大阪で貿易業を経営戦後熊本に帰りました。

 

 ここで西虎屋の六人兄弟に移ります。明治二十一年中部校の第一回卒業生十名の中に、菅英作・蟻田仁策という好学の士がいました。二人は前年発足したばかりの第五高等中学校−後の五高に進みます。菅は事情により中退し、蟻田は大学に進みますが、在学中病にたおれました。

後年菅英作は、男児六人を坂梨小、済々学校、五高、京都帝大の順に続々と送りこみました。長男平二(大三小卒)は工学部土木科卒。東京市役所・上海に渡ったりして、最後は東京都港湾局技監で停年。その後首都高速道路建設にたずさわり現在は東洋建設の顧問です。

 二男省已(大五小卒)は経済学部卒。直ちに神戸市役所入り、後に社会課長となりますが戦後村に帰って助役を勤める中に病没。まだ五十一才でした。

 三男竺三九郎は五高入学の年、明日から夏休みという日に江津湖で水死し、小学生まで大きなショックを受けました。

 四男半作は昭和七年の法学部卒業、歌人で詳細は「村を描く文学作品」中で紹介します。五男第六は応用化学科卒、古川電工本社の理化学研究所勤務二十五年、その間に工学博士号をとりました。現在は日本ゼオン顧問。琵琶湖畔の近畿ゴム加工社長良。 (大二小卒)「天然ゴムの誘導休、塩酸ゴムに関する研究」

 六男七生も応用化学を了えて日本軽金属研にいたが、帰郷して教育界に入り、工業学校の一本道を進みました八代・天草・玉名を経て現在八代工業高校長。(大一五小卒)父英作の既定方針であったか、才子たちの自発行為かは知らぬが、余程の条件が整わぬことには、学問の道にこれだけ足並みをそろえることは至難であります。他に例を知りません。

 京都に三人の医者がいました。藤井丈夫(明三二小卒)医学博士でまだ元気です。京都医専卒で四十年来校医や市医を勤め、今は悠々自適、山科に閑居しています。

 

 福田十郎(明三七小卒)大正十二、三年頃阿蘇で最も早く医学博士となった一人です。私はこのことを牧野校長が朝会で、伝えたのを今でも覚えています。小児科を開業し、先年小学校に世界人百科二十数巻を贈りました。昨年の夏亡くなりました。七十八才。藤井 祐梯(大十小卒)小児科医。先年小学校に多額の

寄付をして、正門周辺を自然石で装いを新にしました。以上二十数名の、ほんの横顔を走り書きしましたが、時代を戦前に限りました。この村の学問的な素地は、かくの如くにして養われました。学校を論ずる時、人はよく校風といい、伝統といいます。坂梨の教育的な伝統とは何であろうか。一言にいうは難く、また危険でもあるが、文化的に遅れをとっていた阿蘇において、これまで述べたように、一般に好学の気に富み、子弟の教育のためには、全財産を投じても悔いぬものがありました。今日の如く、援助補助制度のない時に独力で、中央に送り熊本に出しました。何しろ東京まで三日もかかった時代のことであるから、彼等の中には、村境の松山の大松の下で、水杯をする者もあつたということです。

 全く社会情勢の一変した今日、親たちの願いは、子に託する希望は、価値観のおきどころは、果してこの旧時代の人達に及ぷものがあるのでしょう。また青年の学問に対する気迫、これら往年の学生に負けじと追っているだろうか。深く考えさせられる問題である。