大正期から昭和へ
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五、大正期から昭和へ

 いよいよ時は大正に移ります。二年には廻旋塔が作られるが、これは大正初の悪童たちには、大いに親まれました。同年七月には「師恩碑」が建立され、次の教師たちの名を刻みます。

 

 合沢 三郎  永井木太郎 阿南与乎次

 森山 四郎  釘宮 梅村 藤井 一杷

 江藤 安平  森永猪十郎 橋本 和造

 甲斐 大淳  井嶋末次郎 営川  甫

 赤星 クマ  江藤 文六 佐々木精一

 佐藤 祐明  松本 松熊 高木辰次郎

 林  省吾   今村 一枝

碑の書は、村の先輩市原伝の美しい文字です。この書家の傑作は古城校内の忠魂碑で、躍動の気あふれる大書であります。墨すりに行ったのが、六年生の高木鉄臣同窓会長ですから、今は音の話でした。師恩碑については全国的にも珍しいので、雑誌の少年・少女倶楽部に紹介されたのでした。

学校沿革誌の三年一月二十二日には桜島爆発午前十時頃より鳴動降灰甚し とあります。四年十一月には、大正天皇即位祝賀の提灯行列。昔は旗行列などでもよく祝ったものでした。五年十一月、付属校訓導であった牧野直を破格の待遇をもって引き抜き、坂梨校長に据えました。これこそ当時の政党政治の一端を示すもので、憲政会の実力者たちの画策によるものだったと先年聞きました。牧野校長の在職は八年五か月、歴代校長中最も長く、この人の学校経営については、村民は全幅の信頼を寄せました。県下の図画教育指導者であり校長かたわら阿蘇高女の美術教師を兼ねていました。私の一年生の時授業に来て、話をしながら黒板一面を絵で埋める器用さでした。大正十四年郷里の玉名郡江田村(現菊水町)に帰り校長をしました。

十一年に中部高等小学閉鎖、小学校に高等科がおかれて、校名は坂梨尋常高等小学校と改まります 翌十二年に創立五十周年の式典あり、九月関東大震災十一月には早くも救援物資の梅干二樽、衣料一箱を送ったと沿革誌にあります。私は前庭の松の根に梅干の大梅があつたのを覚えています。十二年頃から数年間、陸上競技熱が盛りあがり、指導は若き日岩下 満男(古城村)でした。この人は農学校を出たばかりの若さのエネルギーで、余り年令も違わぬ青年や生徒を、実によく手なづけ、熊本にも遠征しました。一時阿蘇に坂梨あり、といわれたのですが、選手の大半は戦死・病死しています。夜は竹竿の先に古燭光の裸電球をつくりつけて、運動場を照らし、にわかのナイターで青年を走らせたものです。スパイクはこの頃がはじまりで、金釘をうった靴は、こどもには珍らしがられました。熊商出身の松本選手を連れてきて、彼は巾とぴで空中を、一二歩足をかわすので、「松本さんのハサミ、跳び」として、みんなの間にひろがりました。十四年八月から、四反二畝の運動場拡張が始まり、一挙に倍以上の広さになります。何にしろ五十年前のこと、村中総出で道具はモツコ・クワ・スコツプ程度、まだ柔かい土をはだしで跳び廻って子どもは喜びました。秋には早速郡青年団の陸上競技大会、これは明治神宮大会県予選の郡選手をつくる会ですから、各村はムシロ旗をかかげての応援。号砲のピストルは小指の先程の空砲をうつ廻転式の本物でした。新運動場は大いに面目を施した次第です。

運動場が広まって、三百人程の子どもではもて余すようになり中程には程よい雑草が生えて、バツタリを仕かけたり鳩ギメさえとぷようになりました。この頃から、村には鉄道工事が始まります。宮地線を延長して、竹田の方につをぐのですが最大の難関は、外輪山の山腹のトンネル工事であつたのです。村内には韓国人内地人の土工が続々と集り、急に活気づきました。土工はそれぞれの組に属し、村の中にも下請的な仕事に従事する者もありました。福岡部落にはブロック工場まで建ち、松山の川原から砂利運びの馬車が、列をなして通ります。ブロックとかバラスとか飯場・ずい道さては親分・子分などのことばを実感をもって子どもも覚えるのです。

トロッコの本物もはじめて見ました。トンネル開さくや岩石崩しのダイナマイトの音は村中にとどろき、土工仲間のけんかも学校で話題になり、珍しいニュースも周辺の部落の者がもたらします。村に料亭さえでさました。当然工事のぎせい者も出て、韓国人たちは哀号の歌を流しながら、葬列は村中を通ります             (合同の弔魂碑は浄行寺境内に昭和三年建立された)小学校にも土建関係者や、工事監督の子女たちが、転校して来ますが、彼等の中には服装のはでな子がいたりオカッパはこの頃から、はやるようになりました。その反面あれ程韓国人がいたのに、その子どもたちは一人もいなかったのが、今になって気になります

 昭和に入って二年八月に難工事の「坂の上トンネル」が開通 三年十二月豊肥線全通式が 女学校で開かれています。

工事の組頭の親分たちは学校に、鉄棒を寄付して去りました。 鉄道開通と共に、坂梨村は今まで交通上の一拠点であった性格が、ガラリと変ってしまい、この数年間工事のために、景気づいていたあとだけに、一層の寂しさでした。

 しかも十一年には、滝室坂新道の 起工があり、翌十二年十一月には完成して、いよいよ村はさぴれてゆくことになります。この年十一月二日には現在の南校舎六教室の新築落成、中舎二階の東端に載縫室を増築しました。また従来の雨天体操場はこの時、家事室に生れ変ってれます。 すでにこの頃は、日華事変の只中であり、村も学校も一途に、国策に沿うほかはなかったのです。以後二十年の終戦まで、ほんとうの意味の教育が行われる、心の余裕はどこもなく、児童たちも食糧増産の名のもとに、働かされました。私はこの頃、となりの古城校に勤務していて、運動場をからいもの苗床にして、外輪山上に畑を開き、植えつけました。炭も原木を切ってきて焼きました。当時は朝から夜までのしごとで、隣の学校のことまでは分らなかったが、坂梨校はこんなことまではしていなかったように思います。校舎でさえも、一つ間違えば軍にとられたり、物資倉庫になりかねない状態にまで、追い込まれたのです。 戦争末期になると、村には沖縄からの疎開者が多数入り、松山の武徳殿にも、住みこみました。学校の前庭には、東肥航空会社の鉄材が、山と積ずれていました。この戦争の途中において、昭和十六年小学校が国民学校と名がえしたのは、ご存知のとおりです。歴史はくり返す、といわれますが七十年前の明治十年、村が西南役の渦中にまきこまれてより、ここにふたたび戦争の災いを、まともに受けたのでした。

 

 戦後の二十二年に発足した六三制によって、統合宮地中学(宮地、坂梨、古城が生れたのですが、それは校舎なさ学校でした。そのために坂梨と宮地分区の生徒は、旧校舎に陣取りました。丁度この時坂梨校にいましたが、三月まで本当に新制中学は始まるのだろうかと、半信半疑していたら、どさくさの間に忽然現われたという感じでした。

 小学校は中舎南舎に移り、引揚者のこどもたちが、次第に転入しはじめました。最も在籍児の多い時は、十学級約四百名の子どもがいましたから、今の倍以上にもなるわけです。

 現在一学級平均三十名、理想の小学校のすがたをなしていると思います。