諸式典の記
ホーム 上へ

諸式典の記

 

十二月十六日(日)風あるも時折りうす陽射す。前日気になっていた天気も、まずまずのようす。定刻一時間前に学校に行ったら、先生もこどもも走るようにして、朝の支度をしていた。

役員ら続々集結。九時半 熊本の同窓生ら到着。定刻十時に数分おくれて同窓会発会式。巖木静之議長となって、会則を審議し可決の後役員選出で(六年卒で記す)

会 長  高木 鉄臣(下町 大卒)

副会長  小林 勝久(上町 大11卒)

      古閑レイ子(下町 昭18卒)

監査  渡辺 知己(豆札 昭11卒)

上村 次諺(古神 昭11卒)

古木 松見(浄福 昭9卒)

会 計  内山田正克(中町 大9卒)

庶 務  巖木 静之(馬場 昭2卒)

渡辺 文吉(松山 昭卒)

        

 の諸氏を承認決定した。

 高木会長役員を代表して挨拶、内山田会計より昨十五日現在での寄付金・祝宴費・同窓会費集めの状況報告を行った。渡辺庶務よりは本日の除幕式・記念式典・祝宴について、滑らかに進行するよう要望した。 会員は校門の西側に移転し、神式により除幕式にうつる。この日、阿蘇神社よりは惟友宮司自ら祝詞を奏し、除幕のテープ紅白は、同窓会の元老市原繁老(86才明卒)高木キクオ刀自(84才 明32卒)によつて引かれた。

 瞬間、期せずして人垣から拍手がおこる。七トンの巨石に刻まれた「坂梨校百年記念」の金文字は、ハラリと落ちた白布の中から現われた。書は内山田正克の手に成り、下部の銅板の碑文「校史百年」は山口白陽(明43卒) の作である。

 石は豆札の産、施エは古閑学(昭17卒)の監督するととろ、総指揮にあたった高木会長は十日間の勤務、各部落からの建設委員は重機械の間を右往左往した。すべて、これ同窓会員の手作りなのである。

 式は型の如く終り、ふたたぴ体育館に移り記念式典に入る。ステージ正面には五十年前に見慣れた極際彩色の大花瓶に菊花の大輪が咲き匂っている。、

 式順

 一、はじめのことば

  二、君が代去月唱

  三、同窓会長挨拶

  四、学校長挨拶

  五、教育委員会上タお祝いのことば

  六、お祝いのことば

町 長  教育事務所長 旧職員代表

 七、百年の歩みのお話

  八、児童上々お祝いのことば

  九、感謝状記念品贈呈

O、児童へのおく少もの

一一、祝電ひろう

一二、旧牧歌「学びの窓」斉唱

一三、校歌斉唱

一四、おわりのことば

 

 高木会長は喜びに満ちた若い声で、前掲の長文の式辞を朗読した。

 

 軸丸校長、佐藤教育長、松崎町長、菊川教育事務所長、旧職員よりは宮川前校長らの祝辞があり、百年の歴史の重みと、文教の地坂梨の意味を児童たちにさとした。次の「百年の歩みの話」になるものを、数日前に軸丸校長上り受けた私(渡辺)は、種々構想をねつたのであるが、持時間は十分間、式の進行をみて多少の超過はよかろうということで始めた。対象は児童に、しぽり話したものの、百年を十分ではこなせなかつた。 席にかえつてたずねたら、三十分かかったとのこと、

冷汗三斗の思いをした。しかも大事な点を二つをもらしていた。

一、体をきたえよ、丈夫であれ。先輩たちの中に、学業なかばにしてたおれた人は多かつた。

 二、戦争は教育(学校)を断ち切るものであること。戦争中学校の渡り廓下は、すべて崩された。校庭には軍の器材が積まれた。もしあの時、体育館があつたら倉庫になつた筈 西南役で県下の教育が、中断されたことは話した。

 とんだハプニングを起したが、一の宮中学時代の教え児で、もうPTAになつている連中が「久しぷりに中学時代を思い出した」となぐさめてくれた。感謝状結記念碑建役に全力を挙げてベストを尽くした古閑建設はじめ、石材店の船場・野中・福島の諸氏と井庭師におくられた。

 会員による旧校歌斉唱「学びの窓」はすばらしかった。高木会長の指揮、西教男(昭12高卒)伴奏で、小学生のむかしにかえり、大きな歌声となった。思えば向陵健児(一高生) らの放吟した「あ〜玉杯に花うけて」の曲は、妙にこの校歌にマッチしていると思うが、皆さんいかが。

 (明治時代の校歌、応援歌などは、ほとんど曲は他を移入している。時には軍歌調の校歌さえある)

 式も終りに近く、代って小学生の校歌斉唱となる。作詞者もはじめて開く、母校校歌に感無量の体であつた。

 記念式典終る。時に一時前十分。

 直ちに会員ら配役のとおり、祝宴の準備にかかる。参加会員約百五十名で、体育館は一杯になつた。遠来組には奈良の家入とし子・大分からの高山孝・猪頭努・熊本からは山口白陽・市原鶴雄、強の兄弟博士・大津からは藤井祐正らの顔が見え、この式典を心から祝福した。

         

 

 

     記念碑建設日記抄

 

               渡  辺  昭  元

                 (s・14 卒    古神にて 製材業)

十一月二日 同窓会発起人会に於て、左の通り建設委員  が、選任された。高木鉄臣 古閑 学 高木 親 古木松見 市原寿小林勝久 内山田正克 江島政則 市原正己渡辺文吉 巖木静之 古閑 明 渡辺昭元一月三日 午後七時より 建設委員会が催され、建設の場所について討議する。旧校地跡二ヶ所については、会所及び大黒屋裏に決定する。百年記念碑については、現校地内に内定し、詳細は碑石運搬後に決定する事とする。又、碑石については、翌四日、校区内豆札部落十人持山林内にある石を、貰い受け運搬する事に決定した。尚此の石については、私が仕事の関係上豆札のその山林に、いつも行っており、日頃からその附近が伐採された時には、ぜひ庭石に貰い受けたいものだと、十年来念願して来たものである。しかし、百年記念の碑石にと提案はしたものの、大きさ・形など心配になり、会議終了後、一旦家に帰ったが、どうにも眠れそうにないので、十一時頃から、鬼塚部落の上にある高城八幡さんの近くの山まで、行ってみたのであつた。結果は、以前から考えていた通りなので、一応安心したような次第であつた。

十一月四日 本日は、百年記念の碑石を掘出し、学校まで運搬を終る予定。石を貰い受けるため、午前七時出発。途中、古閑学君宅に寄ったが、昨夜が遅かつたため、まだ起きていない様子なので、豆札に先行して、部落で待つ。やがて会長の高木先生と一諸に古閑学君も来たので、区長の言閑明さんと相談し、すでに稲こぎに行っている部落の人達には、区長さんに廻つて貰って了解を受けた。石を貰い受けたので、直ちに、器具を揃え石掘りに掛った。当日の機械器具は、古閑建設より、七五型夕イヤシヨベル、六五3型ブルドーザー、四、五トン積ダンプカーその他小道具、チェンソー等。又、古閑建設より江上・宮崎両君に終日骨折って貰った。 石掘りにかかつた処、四十%位出ていると思った石が、三十%位しか出ていず、又、石が余りにも丸く、その上碑石として使用するため傷はつけられず、人力で石の裏まで掘り出させるざるを得ない始末。部落から 江藤徳興・渡辺知己両氏が加勢して戴いたので、檜立木二本を伐採して掘りやすい様にした。その間、タイヤショベルは、道路を修理したり作業は大忙し。漸く、石にショベルを掛ける様なつたが、その時になって、丸い石のため、下の山林内に転げ落ちる心配が出て来た。そのため、下側に石を積み、叉、ひのき丸太の伐採したものを歯止をする等、万全を期した。準備万端整った処で、シャベルの先端に丸太を当て、石に損傷を与えないようにして、碑石を動してみた。参加者全員、息のつまる様な一瞬であ、った。併し、一回では動かず、二度、三度する内に、漸く動いた。そして巨体がころつと回転して、歯止の所で止つた。皆んなの歓声が一度に上った。歓声の後に、大きな溜息が出た。これこそ安堵の溜息なのかも知れない。今でも、その安心した皆んなの顔と、喜びの声が、聞える様な気がする。此の時になって、私は、高木先生や古閑君は、朝飯も食べていないのではないかと気がついた。あまりにも遅い朝食と昼食であつた。掘り出した石を見ると、縦方向からは円、横からは卵型、上から見ればじゃがいも型、まことに面白い石であつた。あとで、坂梨小教頭井野先生の測りによれば、長さ二百五十、幅一米八十、高さ一米六五とか。

昼食後、石の運搬にかかったが、容易に動かず、タイヤシヨベルをブルトーザーに変えた。ブルトーザーでも困難を極めたが、江上君の長年の経験と発意により、漸くダンプに積み込む事が出来た。 ダンプも大分重そうに見えた。石積みを終ったダンプの前で、石を背景にして記念の写実を撮ったが、皆んなの皆が如何に写つているやら。

 小学校前庭の二宮尊徳像前に、石を下した時は、晩秋の日は短く、すでに夕闇に包まれていた。当日午後七時より、評議員会により建設地を 現在の国道に面した場所に決定した。十一月八日 (以後渡辺文書記)

   熊本の山口白陽に碑文を依頼する。井野数頭、渡辺文吉は県庁ロビーで、作文し了るのを待つ。忙しい処を一時間たらずで完成してもらい、新市街の佐藤商会に行き、銅板でやきつけを約する。京都まで送る由、碑文の書は制作に日時を要するので、先方に一任する。

十一月十日

   学校門碑の基底、地下約二米コンクール打ち。阿蘇神社を招き地鎮祭を執行する。

十一月十八日

   この日寒さきぴし。本碑周辺の数個の飾り石を探しに一隊は日野に向う。残りは学校の他の周りのブロック垣を整備。更に本碑の腰部に当る処を土築き。

十一月二十五日

  この頃十日余にわたる刻字は大体終了していた。 庭師二人来て飾石の配置など終る。

十二月五日

  本碑の巨石を台上に据える。今期建改作業中の最大の、しかも細心の注意を要する仕事であった。

  古閑建設の人と機械一体の技術により、人みなかずをのみ見守る内に美事に据え置かれた。

十二月七日

   北駄原(会所)に坂梨枚発祥地を建立する。寒い一日なり。

十二月八日 

  碑は一応の姿を見せたが、周辺はいかにも寒々しかった。ふたたび庭師を入れ、梅の古木を配し、ツゲの緑をあしらう。こうすれば石も生き返った感じである。 いよいよ大記念碑は松をバックに処を得た。

十二月九日

  平口の隆成学校跡の碑を建立する。

十二月十三日

      碑文の銅版ようやく送って来た。碑の前面にはめ込んで一段と映える。

   高木会長ここに就労十日間の作業実動おわる。