坂梨手永と三小区
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 坂梨手水と三小区 

手永とは手のとどくところの意味である。肥後国に手永のおかれたのは、寛永十年(一六三三年) といわれている.細川氏が小倉にいた時から実施しており、手永制を布いたのは豊前豊後と共に、細川氏に関係のある地方に限られている。  他国では組制であるが、手永は組よりその範囲がはるかに大きかった。初期には六十一手永、後期には五十二あったという。

 大きいのは竹追 (たかば)手永で今の菊池那にあり約二万七千石、最小は芦北郡津奈木のニ千余石である。また含まれる村数では、最大は矢部手永の七十三か村、最小は高森手永の十二か村で、大体二。三十か村を単位としている。

 阿蘇郡には正保年間に鳥子 (後に布田).高森。菅尾。野尻。内牧。坂梨。北里。下城の八手永があり、天保期に小国は合併して北里のみになった。 坂梨手永(俗に上手永とよぴ内牧手永を下手水という)の内訳は次のとおりである。

(坂梨)馬場 柿木 亀成 古閑 小岳福岡 鶴 徳岳 寺 豆札 鬼塚 三久保

のみね) (三ケ村)立山 平井 中薗西 三森 杉薗 栗木 甲津 (野中)阿蘇品

内 浄土寺 (北坂梨) 崎 (やまのみね)古間 山下 (手野)橋詰 鶴 平 樋 下夕石 (尾籠) 吉上屋敷 花薗平 (下原) 内 垣外 玉ノ元 無田口 片角        

(中原) 西河原 今古閑 (宮地) 林田 小屋 灰塚 横田 瀬戸 原下中原 (井手) 馬場 小薗 中川 陣ノ町 亀尾崎 田嶋 今 筒川 原口 八頭園 竹ノ内 毛生原 塩井川 植木ノ原 奥園 川部 木(ほうき) 無田口 泉 (塩塚)(四分一 )      

  本村 合拾弐ケ村 

  小村 合六給七ケ村 

  高 合壱万千九首六拾三石四斗余

 こうしてみると、古い村名が今でも小字名として残っているのもあるし、もう消えて了って初めて聞くもりさ えある。  手永の役所が会所で、その長を惣(総)庄屋といい、その地方の有力者の中から藩が選んた。初期のうちは、その家も大体決っていて戦国末期の豪族と結びついている。したがつてそれは農村の有力な地主であり。苗字を名のり帯刀を許され、知行も二。三十石を与えられた。後では転住もあって、地主の性格はうすれて行くことになる。総庄屋の下に手代。小頭などがいる。また山林行政にあたる御山支配役。山ノロもあり、監察役を横目という。各村々には庄屋。肝煎り(きもいり)頭百姓があり、五人 組には伍長がいて、総庄屋の指導をうけた。これらはみな地方役(じかたやく)といわれるもので、農村在住者から選んでいる。会所の構内には、事務をとる会所、会所全体をみる総庄屋の住宅、倹見(毛見−けみ−現地に役人が出張してその年の作柄や農民の生活状態を見て、そり年の年貢の収納率を決定する。後には凶作以外は検見を行なうことは少なくなった)の役人である内検衆(ないけんしゅう〕の詰所、帳簿を納める帳蔵、飢饉にそなえて食料を貯えてある囲籾蔵(かこいもみぐら)などがある。周囲には竹垣、建物は士壁わらぷき屋根であるが、帳蔵。籾蔵だけは白璧。かわらぷきであった。

 坂梨手永とは別に、三小区という地区名で坂梨が呼ばれることがある。これは明治四年の廃藩置県のあと大区制をしき、六年と七年に改めて再編成、十六大区や六十 六小区としたものによる。すなわち第十三区第三小区が、大体元の坂梨手永である。

 この時は次のように、以前の小村は統合されている。 第十一大区(阿蘇郡) 郡を十小区まで分けて、 三小区(村十九。町ニ) 坂梨町馬場 古閑 上野中↑野中上三ケ 下三ヶ 北坂梨 手野 尾籠 東下原 西下原中原 井手宮地町 分西宮地 東宮地 西宮地 南宮地北宮地 四分一

 この区制も永くは続かず、明治十一年七月の「郡区町村編成法」によって廃止される。県の下に旧藩以来の郡を復活させ、郡役所。郡長をおき、その下に町村がありその長を戸長といい、役所を戸長役場といった。県下の様子はそり後、移り変りはあるが、明治二十一年四月市町村制に改められ、実施されたのはその翌年からであつた。二十九年県は一市十二郡となり、これは昭和初期まで続いたのであった。