夢よ もう一度 名物・坂梨人参 古い時代に坂梨村で朝鮮人参を栽培していたことは、以前から聞いていました。 昨年「熊本県史」を読んでいたら、ふと「坂梨人参」の文字が目にとまり、ハツとして調べてみる気になりました。 熊本の上通町に河島書店という古いた本屋さんがいます。先代は一風変った人で「本を売らぬ本屋」などといわれ、珍らしい古書類が山をなしていて、全国から学者達が調べものに来たりします。当主はまだ若く高本順先生を中心に一の宮を研究しています。 この本屋に「肥の後州名所名物数望(スモウ)附」という書き本が蔵されています。天保十一年 (一八四〇) に松木恒正という人によって書かれたもりです。肥後の名物、佳産、珍品等の番付をしたものですが、農産畜産物の部で一位は御米(肥後米)四位が坂梨人参なのです。そしてその説明に御種人参は坂梨町近処に多く植うる。阿蘇郡中処々より出づるといえども坂梨の産にしかず。甚だ高下下多し。植えつけて手入よく年数経て大いなるもの上好也。価貴し 細き程下なり 価賎し。旅へ、多く出る。けだし人参は倭物 (国内産)は野州日光、和州芳野その他多し。唐物は朝鮮、雲南、広東、淅江等の産佳也。とあります。 価が貴いとか賤しいとか古風なおもしろい表現です。朝鮮人参、御種人参、坂梨人参、みんな同じもりです。御種人参とていねいにいうのは、福岡大学塚本教授の説(三八年一〇月朝日)によると、江戸時代相当に輸入されて国の金が流出するので、幕府は有力大名に種子を分け与えたのてす。人参の種子さえ呼び捨てに出来ず敬称を奉った次第です。とにか〈坂梨では藩政時代より明冶初期まで作ったらしく思われます。私は先年より「お茶屋」 の文書類を見せてもらっていますが、先だって明治十年の百姓一き(うちくずし) の際の御茶屋西新宅の被害届の手控を見ました。被害の一部始終を書きとどめた貴重な資料ですが、そり中に一、御種子人参 五斥程 一、右同 種子 六升程右紛失仕候 とあります。又之に付随して人参製法用の室ブタ百八拾枚、火室三、サナ三十枚、切溜十四も破損仕り候と相なっています。 このことから想像しますと、種子が六升も大事にとってあったということは、また明治十年頃まで村で作っていたという一の証拠にはなりますまいか。そう思われてなりません。製法用に火室、サナなどがあることからすれば、仕上げ(薬草として) の方法も大体卸想像がつくと思います。 大変手の入る作物でしたが、根が数本に分れて人体の形を思わせるような特級品は非常に高価でありました。そして前記の塚本教授は、その効果はひいきするわけではないが、昔の本にかいてあるのは皆本当だと思った方が良い、万病の薬という方がピッタリするとさえいっています。(薬学部長がですよ)当の坂梨の豪農は百姓から之を買上げて、巨額の利益を得たのでした。今日でも「とらや」には、まだ残っていると先日真弘さんの話でした。どんなわけでこの栽培があとかたもなく、消えうせてしまったむでしょうか。文明開化という波に追われて沖に流されたりでしょうか。まだ私はそこまで調べ上げてはいませんが、その昔、宿場町であった坂梨の広い往還(おうかん)を、この人参を呑むか食うかして(一日五六グラムで充分)元気を出して往き来した旅人を思うとほほえましくも有ります。 近頃、何んでもリバイバルとかで昔にかえる風がみえます。薬も漢方薬が昔日のイキオイをもりかえしたようで、クコをはじめ人参の写真も紙上に見るようになりました。 人参景気の夢よ、もう一度と願うのは−農作には門外漢の田舎教師の、それこそユメ、マポロシでありましょうか。 (三十九年七月広報一の宮) (付) 近年ふたたぴ村に、人参試作がはじまり長野までも視察に出かけています。根気強く研究し成功を折ってやみません。先般、熊大薬学部より話を開きに来ました。 |