中町の「めがね橋」
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種山石工作る中町の『めがね橋』

 

 上益城郡矢部の通潤橋は、かって国定教科書にのせられたため、今日では全国的に知られた名橋であります。また皇居のお堀にかかる二重橋は、皆さん百も御承知のところです。

 しかしふるさと人のいう中町の石橋(めがね橋)は、ひよっとしたらよその者は気づかぬままに、過ぎ去ることもあるでしょう。今日では手すりの石がトラックにはねとばされ、コンクリートでついだり、はいだりの状態で、いささか尾羽うち枯らしたという感があります。交通禍はどうも人間ばかりではないようで、この橋の場合まことに惜しいことです。ところで之等三っの橋は、何れも血の通った同じ系統の作なのであります。

三橋共にその架設は八代郡旧種山村(現東陽村)の、いわゆる「種山石工」によってなされました。しかも架設の年代は、坂梨の石橋が弘化四年(一八四七年)、通潤橋安政元年(一八五四年)、二重橋明治六年(一八七三年)の順となります。棟梁は坂梨が卯助、後の二つは丈八(後姓を賜って橋本勘五郎)でありました。中町と下町の境にかかるこの橋の、天神様に寄ったたもとの大石に弘化四年丁未寿吉辰 、八代郡横山手永 棟梁石工 卯助と刻みこんだ人は、当時姓すらもない身分であったのです。(丈入の長兄を宇助といいます)工事は弘化二年七月には始まっていたもようです桜町の平岡善信さんには、当時の石工栄七という人が、先祖におくつたと伝えられる仏像約百六十体の図解説明書があります。それに弘化二巳の文字が記されています。完成までに足かけ三年は要したもりでしょう。卯助の心意気はまことに見上げたものでした。架設工事が大詰めに来て、そして最後の一石を頂点にはめ込むという日、彼は紋服に威義を正し、その真下に正座した と伝えられます。(坂梨素純さんの談)

 昨年に亡くなった熊日の豊福さんには郷土関係の著が多いが、その中に「熊本名匠伝」があります。橋本勘正郎の項によれば石の洪橋は従来の木橋とちがって、どこか一か所ちよっとでも狂いがあれば、全体が台なしになるので設計にも施工にも萬全の用意が必要であった。まず橋をかける際は厚さ二寸、巾八寸の板で橋の形のワクを作る。そしてそのワクに従ってたんねんに石をつんで、最後の一石をハメ込んでワクをとり外すのたが、この時橋がペシャンコになれば万事休す、棟梁は責任をとって腹を切るのが不反律になっていた。だから棟梁は自分の力のすべてをかけて尚その上に神仏の加護を求めた。とあります。

 私はこの四月はじめ、坂梨校の浜本先生と橋を調べてみました。川に下ると、約百個の石がみごとなアーチをかけています.下底の長さ六、四米 巾四、三米.中央部の高さ二、一米。石材は長いもので約二米、短いのは半米程度で、材質はさして堅いとは思えません。しかし架設以来百二十年を経た今日も堅牢そのもりで、すでに或る風格さえ感じられます。改めて施工者卯助に畏敬の念をいだいたのでした。私は以前からこの橋の名称について知りたかったので、この日は下町側の角の二つの大石を調べました。倒れているので転ばしながら四面を見たのでしたが、何らの手がかりもありませんでした。あるいは最初から名称をつけなかったのかもしれないと思っています。私たち村人は、この立派な文化財−おそらく阿蘇谷に唯一つの石橋・を末長く見守って行きたいものであります。

(付)

 種山石工の作としては、鹿児島に磯の長堤、防皮堤、鶴丸城の一部.東京では万世橋、江戸橋、白木橋、神田橋。熊本では明五明十の両橋。下益城に0霊台橋。阿蘇では戸下橋、蓬莱橋等があります。

                         (三十九年九月広報一の宮)