木喰作・子安観音像
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木喰上人作 子安観音像

  寛政四年(一七九四)九月、滝宝坂を下って来る一人の遍路がありました。粗衣に身をつつんだ行者、木喰と人 行道)の当時七五オの旅姿であります。上人は前の年、住職となった日向の国妻の国分寺が火災にあい、生涯の中の最も大きな打撃をうけていたのでした。そして彼は七か年間難行苦行して、自力で寺の再建をという大願を残したのであります。周囲の人々の援助もあって、一年の後、礎を配し木材を集め自身で本尊の彰刻にとりかかるまでになりました。池に用材を浮べて自由に廻転しつつ彫りました。八月一五日には五体の中の二体(如来像)を仕上げているので、坂梨を訪れたのはこの直後ということになります。 木喰上人は一七一八年(享保三)に甲斐国古閑村に生れ、二二才にして仏門に入り、四五才で木食戒を受けました。木食戒とは煮たり焼いたりしたものを食べぬという修行の一つで、上人は九三才で世を去るまでこの戒を守り通したのです。五六才の時日本廻国の願を起し、全国をほとんど歩きつくしました。

 柳宗悦(美術史工芸民芸の研究家、東大卒、欧州留学後、駒場に民芸館設立文化功労章を受く。木喰仏の美を大正一二年最初に発見した。三年程前に投)の選集第九巻は全巻木喰上人の研究でありますが、この中て次のように述べています。

 家を出てより三界に家なきこと八十年、沙門の身となってより法に生きること七十二年、戒を守り身を修ること殆ど五十年.廻国せんと歩むこと三十有年、踏みし里程上下およそ五千里、刻みし仏体一千余体。かくの如きが吾々に示された上人の一生である。

 さて、坂梨の村里に下りて来た上人は、佐藤勝衛氏の先祖勝左エ門が、ただならぬ人であると見て、字柿木の自宅にとめました。宗悦選集の中に − 寛政四年九月、阿蘇郡坂梨にあり −と記されています。廻国足跡図にもチャソと「坂梨」と記入されて います。

 仏像をほる遍路が柿木にいる、とのことを聞いたのは虎尾菅氏の先祖でした。幾人かの幼児の病没したあとでその供養にとの一心から、子安観音像彫刻を依頼したと伝えられています。佐藤氏の話では、この時使用したといわれたノミも子供の頃まであつたがとのことでした。観音像は現在、上町の天神様の境内の小堂に安置されて、部落の人たちによってまつられ、虎屋の信仰は大変手厚いとのことです。

 ところが (といっては罰がアタリますが) この観音像は普通に考えられるオカソノンサマと様子がまるで違います。木喰仏独特の型破りの、個性豊かな異様な容ぼうの老婆が赤ソ坊を抱いてござる。古閑か馬場通りの畑に立ったおばあさんをモデルにしたのではあるまいかと思われる程の作品です。材料はケヤキで高さ一六三糧、胴廻り一五〇糎の重たいもりです。女人のお詣りも多いらしく、フロシキ大の赤や白のヨダレカケ女幾重にもかけておられます。お堂も数年前に新築されました。

 上人は一夜に二休も三体も彫り上げる程仕事の早い人ですから、この作品もおそらく短時日の間に出来上ったものでし上う。佐藤氏宅には、自作の和歌一首を残してまた日向国に帰っています。この観音像について柳氏に紹介したのは、浄行寺の先々代素雄師でした。私は三年前に坂梨校の保存教科書を調査に来た、県文化財専門委員の牛島氏に、このことを伝え、堂まで同行しました。この時の印象を同氏は昨年一一月熊日紙上に「木喰の業と芸」として書かれました。

 上人の行脚が北海道から九州の果まで広かったと同時に、作品も全国に散在していますが、県内には坂梨だけではなかろうかといわれています。しかも蓮台の下部が、わずかに焼けているのみで、ほとんど原作のまま保存されて来ましたのは村人のお手柄でした。私は村で文化財中の文化財と思っています。 註 木喰仏は柳氏の他に作家の武者小路氏、山下清を世に出した式場 隆三郎医博らによって真価が認められました。式場氏は「思わず手を合わせるような仏像もよい・・・

しかしわれわれの日常の暮しりの中に交わって.いつでも親しく手をさしのべてくれる木喰仏の有りがたさをしみじみ想う」とのべています。

                             (四十年四月広報一の宮)