園田 五郎次 事蹟
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園田五郎次事蹟

 文化十一年(一八一四年)に豆札に生れ、阿蘇家の塾に通い和漢の学をおさめ、阿蘇惟冶に愛されたという。彼(季光ともいう)の才能は次第にみがかれて、弘化のはじめ頃、野尻手永の横目役(会所の幹部て警察的な役)に任ぜられ、その頃三十才くらいの血気盛りであった。

 野尻手永は外輪山南東の一帯で、宮崎大分両県に境する祖母山ろくであり、草原の谷底を流れる水を田に引くことはできなかった。耕地は火山灰土でやせ、日照りが続けば野稲は枯れ、その上山からの火山灰は音を立てて降り、牛は流産し九月中に霜をおくこともあった。人はクズの根を堀って食用としたという程である。草部に古沢克巳という学校の教師がいる。この人は園田五郎次業績に着目して十年前に、その事業の跡を詳しく追ってみたことがある。それによると、寛永の検地から文化年間までは石高六千二百石で、安政には僅かに五百石の増加で、二百二十年の間ほとんど変りなく、農産物生産は限界点にきていたことが分る。こういう状況の中では開田より他に道なし、と村人は永年考えていたのである。

 しかし飲料水を深井戸から、やっと得る土地だけに、大谷川(大野川上流)の水を引くことは余りにも間題が大きかった。思慮と信念と勇気ある人を求めた。ここに起ったのが横目役園田五郎次である。

 彼は岡に立っては地形を臨み土質を調べ、朝日夕陽の影で土地の高低を察し、霜・雪・草木の開花の時にも注意した。水源と開田地の高低には特に留意した。昼は竹秤、夜は三個の提灯で直角三角形を作った。岩山をよじ猪をもはばむ雑木倒木の繁みは、測量の困難を極めたが次第に確信を深めていく。豊後より井上某を招き、助手には野尻河地の平四郎を起用した。平四郎は後に士分に取立てられ野尻姓を名のっている。図面完成には三年を要し、藩に嘆願して二千数百両の出資のもとに、着工したのが弘化末年 (一八四七年)ということである。

 古沢氏の調査によれば、水の取入れ口は野尻の川田代めぐり淵である。本流だけでも倉地部落の東南端 ― 横山 ― 牛落 ― 札木 ― 草部 芹口 管山への疎水事業である。(支流も示されているが、筆者渡辺には土地未見のことであるから、誤るのをおそれて詳記することを省く)疎水といっても、単に堀割を造るのではなく、トンネル作業である。本支流合わせて、実に三百町歩開田という未曾有の大事業であった。同時代の矢部地方の布田保之助の開田は約百町歩であった。これはその途中に通潤橋をもつので、殊更に有名になった。肥後藩も財政窮迫の時であったし、農民の生活も極限状態にあって何時何が起るかもしれぬ中ては、解決策は他になかったのである。

 五郎次は野尻水上に水利会所を設け、取入口より牛落までの八キロを第一期工事とし、これを十一に区分し、倉地谷に増水所一、間風十か所を堀った。間風(まぶ)は佐渡金山辺りでは間歩とかくが、斜坑で土砂レキを搬出し、空気の流通をはかる個所てある。 二十四人の石工がノミとツルハシを頼りに堀り起し、それを後向 (あとむき) と称する土工一人が搬出する。総員四十八人が昼夜二交代制、十二時間の重労働である。工夫は肥後・日向・豊後の腕利きが集められ、長屋に住まった。倉地と堺の松と八号間風に長屋カヂヤは倉地に二戸あったという。 米塩・味噌の類は馬背により坂梨からも運ばれた。

 何しろ低地に設けた間風とはいえ、五号などは水路まで垂直て五六十米をラセン状に上下する、里人はこれをサザエの間風とよんだ。今、間風口に立てば山のような土砂レキの中から木炭のかけらを見出す。これは岩壁がノミを寄せつけず、為に坑道にフイゴを持込み炭で岩肌をまっ赤に焼いて、水汲女が用意した水をかけて割り取った。 焼けただれたあとが今も残っているという。五郎次は付近の雑木を倒し、租母山ろくの神原では炭 をやき、焼畑にはソバをまかせた。芹口の小平丘には留木にする松をうえるなど如何にも細心であった。遅々として進まぬ工事に、藩よりの督促もあるが、依然として岩は固く、掘り出すレキは、朝持参する竹の面桶に一杯入れて出れば一日分の仕事とされたほど。(調査に当った古沢氏は、余りにも量が少ないので、現存する高森町の石工、西森 ― この人は明治神宮の石垣築きに行った名工 ― に念をおしたらノミ、一丁では石臼を彫る の二日一升であれば最上の腕といったという) 何時しか工夫長屋で生れた子が−小石を出すまでに成長し、屋根はくされ落ちる程になったから、長年月を要した難工事が察せられる。

 万延元年の暮近く、中間地点の鎚音は手にとるように聞こえ、工夫は満身の力をノミに加えて岩盤を砕き明日に期待した。しかし−結果は空しく鎚音は足下にひぴき、そして速のいた。すなわち水源が低かったのである。悪運は続く。援助の細川斉譲、万延元年四月十七日卒す。あたかも幕末動乱の世であり、五郎次の嘆願は受け容れられなかった。

 萬事休す。工事は中止された。

 五郎次は故山の豆札に帰り、つかの間を付近の子の教育に当てたのは、この時である。文久元年(一八六一年)九月二十五日、すべての人々に詑び、自刃したのである。時にまだ四十八才であった。卯の鼻山中の墓所に「円月院暁雲居士」と銘されて葬られた。 (彼に子なく、跡を継いたのが太邑で当時七才、藩主慶順も大いに感じ、十五才として元服させた。また荷役であった忠僕武七郎は会所の小頭に取立てられ、維新で帰村し、今も渡辺家として続いている。

   参考書 四十一年刊「阿蘇の教育」古沢克巳 園田五郎次季光事蹟