蘇門・園田太邑牝先生
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  蘇門・園田太邑先生 ある日の太邑翁

 

 太邑は漢詩の号を蘇門といい、俳句では千里軒牛歩あるいは茶魚、鉄笛など号している。漢詩は誰にしても、容易に作れるものではなく、従って俳句−美濃派の手ほどきを受ける者が、近隣にはどれだけかいた。 美濃派というのは、芭蕉門下十哲の一人、美濃生れの 支考を宗とする一派で、平俗を旨とした。

 一時坂梨忙も市原惟房(緑樹仙四木)ら数名によるグループが千里軒に指導をうけ、それぞれの俳号をもっていた。坂梨校の元旦の式のあと−思い思いに年頭感を俳句や詩に書きとめたりしている。

 高子穂の人で藤岡照太郎は、高森専売局に勤め−かねてから手紙の上では、千里軒に句の添削を乞うていた。

 ある日、豆札に師を訪れたが千里軒は居留守をつかって会おうとしなかった。藤岡は即座に 葉桜となりて訪いけり師のいほりと、も一度面接を乞うたのである。句をもって呼びかけられた師は、香も高からぬ渋茶一わんと応えて、招じ入れたという。連歌による応接など今から思えばちよっと時代ばなれのした、のどかなよき時代であった。

 千里軒の姪、市原ニエからはこんな話をきいている。

(ニエは千里軒の姉の娘、東京女子美術学校刺繍科卒業、後にその母校の教師となった) 千里軒は大変な神経質で、ミソや塩辛の類がきらいであった。 田楽にも、もっばら醤油を用いたという。

  田楽にミソをぬらずに醤油さす春風(シユンプウ)という
                        名さえうららか
 彼唯一の戯歌(ざれうた)であろう。その他にきらいなものにクモがあった。クモの糸がスツと下がって来ようものなら直ちに執筆を止めた。好きなものの第一は酒であった。揮毫を依頼されると.「三拍子そろわんといかん」 といった。すなわち、天気と気分と酒であったという。中通小学校由来記を書く時など、まだ若かった佐藤、岩永両訓導たちが、墨すりに足繁く通ったときいている。
 昨年夏、私は波野村滝水の佐伯氏宅を訪ねた。座敷の欄間に相対して、行徳拙軒と蘇門の篇額がかかげられている。

 拙軒は熊本の眼科医にして詩人、明治四十年に没。彼はある夏、佐伯氏宅を訪ね、その居に 「無夏楼」と名づけた。まことに夏知らずの涼しい住まいである。後年また、この友人宅を訪れた蘇門は、これを見て「南向軒」とものした。これも亦、この家を言い得て妙である。この二つを合わせてみると「ナンコ拳で向ろう」と、いうことになる。三人は、この高原において、俗世をはなれ、酒をくみつつ清談し、肥後ナンコに興じたことも、あるいはあったのかもしれない。

                          (四十六年三月広報一の宮)

千里軒雑記

 折にふれ、ここ数年来園甲太邑の調査をつづけてきたが、家塾培達堂についてそれが村に及ぼしたものがあったかどうか。これは大切な点であるが、それがはっきりしない。 私はおそらく殆ど無関係ではなかつたか、と思っている。熊本から来た秀才の中に、地方の少年が交わるスキは、とてもなかったであろうし、また彼の政党的を立場(坂 梨は完全に国権党の地盤で改進党の彼は孤立していた)からくるもりもあつたに相違ない。 しかし元田永宇のもとに、二度も参じた太邑は、坂梨の東京遊学第一号である。こうした太邑の行動が、坂梨の者に学問の灯をともしたことは大きを意味がある。後に二男春耕を東京帝大文科に、長女チホを女子美術に送り、之を先頭にして青年子女十教名が、次々に大学その他に進み、それぞれ名を成した。これは今も語り草となっており、最盛期は日露戦後で、壮観ともいうべきであった。とにかく東京まで三日もかかる時代であったのに。

 しかし太邑ののぞみも空しく、春耕もチホも学業なかばにしてたおれた。ことに春耕は卒業の年、茅ヶ崎南湖院において、太邑は療養中の春耕の散歩姿を絵にして−久しく書斉にかかげ、愛児をしんだ。私は世俗的にいえば、太邑ほどふしあわせな人を知ら ぬ。長男杵島は郡蓄産界の恩人てあるが大正十五年に病没.この三人の母である妻(お茶屋の出)にも先立たれ熊本より後妻をむかえて子どももあったが、すペて早く他界した。

   先立つ妻の門出に、吾もゆく旅なれやと

   こころに告げて

   月かくす雪を終世のうらみかな

     はかなき夢の残る長き夜

   旦散りてやがてまた花散る紅葉かな

   おとずるる鐘のしめりや秋の暮

    こつこつと碑ほるや春の雨

   夜は疾くに明けたり壁のきりぎりす

 この沈痛きわまりない句は後妻との子徹郎の通夜の時に詠まれた作である。私はこどもの頃に、よく翁を見かけた。晩年の翁は、いつも宗匠頭巾をかむっていた。私の家の先祖の墓は園田家と同じく、豆札の卯の鼻にあるので、少年の頃墓参の折などにも会ったもりだった。父は豆札に育ったことでもあるし、翁に対しては深く敬愛の念をいだき、その話をよくきかされた。殊に春耕とは坂梨校の同級生で東京でもつき合っていたが、当時彼は考古学にふけっていたという。

 太邑は非常な能書家でもあった。今日その書は点々と村内をはじめとして残ってはいるが、解読することは容易ではない。多くは美しい線をもった草書の漢詩か俳句である。前述の元田東野をしのぷ詩は、お茶屋本宅で拝見したがみごとなものである。 内牧毛利家は遠縁にあたるが、ここにも晩年の作と思われるすばらしい篇額がある。

 坂梨校には、小学生のために書いた古い習字手本があるが、まことに品位のある書体である。惜しいことに、翁には一冊の家集も著書もない。これは翁を知るものにとっては寂しい限りである。

 翁はまた遠く、水俣に門人をもっていたというが、これは徳富一敬、蘇峰父子と関係があったので、うなずかれるところである。 しかし私は、このことについてはま だ全く手をふれていない。昭和三年十月二十二日、太邑は七十五才をもって没した。あとに残るのは孫とその母 杵島夫人のみであったので

   大根引きし跡の畑や霜の花

 これが千里軒牛歩園田太邑の辞世の句といわれる。

                          (四十六年四月広報一の宮)

参考書:荒木精之 熊本県人物誌、 角田政治 肥後人名辞書

豊福一喜   肥後人国 記  山太十郎  阿蘇魂