西南の役・滝室坂の戦い
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西南役・滝室坂のたたかい

 明治十年三月一日、豊後警備のため、東京より海路佐賀の関に上陸した、檜垣少警視の一隊五百名は、ただちに阿蘇に向った。別に名古屋鎮台からも.二個小隊が配置され笹倉、大利、山鹿、産山の各地に陣をしき、情報をあつめた。その目標は二つ。

一、阿蘇谷に暴動中の一揆を静めること

 二、薩軍の二重峠進出をはばむこと

 これより先、二月末より阿蘇谷に百姓一揆が起こり、内牧、坊中、宮地、坂梨地区の役職者と富豪は、ほとんどその災難をこうむった。いわゆる「打ちくずし」 で、坂 梨郷には三月九日まで続いた。その頃、熊本方面の戦は、田原坂の攻防を中心に、激戦のさ中であり、軍も警察も阿蘇一揆に対して手のほどこしようもなく、東京よりり来援となったのである。檜垣の警察隊は、十七日には阿蘇谷に入り、内牧に進出した。翌十八日には未明より、二重峠においてついに戦をまじえた。しかし警察隊には佐川大警部以下死傷者が続出、弾薬も乏しくなって、坂梨に下り更に久住にまで退却しなければならなかった。勝に乗じた薩軍は、坂梨に入り「大黒屋」を本陣とした。

 この薩軍は協同隊をまじえて地理に明るい。協同隊とは、熊本の民権党によって組織された隊員およそ四百名で、薩軍の誘導に当ったものである。大黒屋に本陣を構えた薩軍は、着着と防備を固めた。そして、戦略上の最重要地点滝室坂(記録では坂梨嶺)を完全におさえてしまったのであつた。

 戦争の大局は、この直後三月二十日に田原坂が落ち二十六日よりは、熊本城が薩軍の水攻めを受けた。阿蘇では一揆の暴徒(後日起訴された者八千四百二十九人)が、もともと好意を寄せていた薩軍に加担してしまった。 しかし熊本では四月に入りようやく薩軍の敗色も濃くなって来た。この頃の坂梨・・・小国の小学教員小島真耕の探偵記によれば

一、内牧の賊兵約百名、十日頃すべて移動す。

 二.賊兵約二百名、坂梨町に集結す。

 三.賊本陣は、坂梨町大黒屋に設置を終る。

 四、賊の台場は豆札坂、馬場、新松山口、箱石口、イポ石その他坂梨の周囲各所に築かれ   

   ている。

 五、賊兵は十一日午后一時頃より坂梨町引揚の模様であったが、飛脚来りそのままふみと

   どまる。

 六、賊の伏兵は滝室坂、豆札、古城跡近傍にあり。この件は警視に報告ずみ。

 七、昨十二日頃より、今朝迄に開戦の見込み。

 八、一きの者、あき家を探してまたわずらわし。

 九、内牧、坂梨をはじめ、谷内(一、二、三小区) の士族資産家は、小国方面に逃亡中。

 これは四月十三日午前十時の手記で、原文はもっと古い文体であるが、たたかい前夜の村の様子が手に取るように書かれている。薩軍台場の名残りは、今も外輪山上にあるし、文中の新松山口とは、今の松山公国に残る築山のことではあるまいか 。ツキヤマと呼ばれているからには、おそらくそれは人工的なものであろう。

 さて、戦は小島探偵の言の通り、十三日に始った。檜垣は大分警察の協力も得て、七個小隊を編制し、大利、笹倉の道を進み、滝室坂の峠による、薩軍に当った。短時間にしては相当に激しいものであった。遠く村里から剣のキラメキが見え、村内浄行寺は、野戦病院に当てられた。村人は政府軍に炊き出しをしたが薩兵の首を見た女たちは夜は外へ出れなかった。薩軍は田の中に銃を組んだまま走り、銃はそのままさぴていった。

 甲斐有雄  野尻尾下の人で、外輪山の原野に石の道標二千本余を立てた人。当時五十才・・の日記風に記した「肥の国軍物語」によれば四月十四日 (三月朔日 曇)

  四月十三日、阿蘇坂梨にて合戦 官軍引きしりぞきし処、薩軍かけしをはさみ打つに、二首騎ばかりの内、二十名生残りしよし・・・ とある.後年、滝室坂の山林から、出される木材には銃弾がうちこまれていることもあった。薩軍は、ついに二十一日 大津に後退し、阿蘇谷から完全に姿を消すことになる。かえりみれば、坂梨が薩軍の占領下にあることほとんど一か月、村は戦に明け暮れたのである.往還筋の山桜の並木に花がさき、そして散った.うたれた薩兵の中にまだうら若い青年もいた。 鹿児島城山山腹の西郷南洲を中心にして、立ち並ぷ碑の中に「丁丑役戦士之墓」がある。

熊本 段山 安政橋 植木 山鹿 田原 吉次峠 木葉 高瀬 川尻 宇土 松橋 保田窪 大津 坂梨 甲佐 御船 木山 矢部 馬見原 人吉 鹿児島 等の各地に転戦して散った、無名戦士を相とむらう碑である。

   参考書

   西南役と熊本  白本談義社

   熊本の歴史   熊本日日新聞社

   熊本県史 近代編一 熊本県

   新編西南戦史  北熊本自衛隊

 この他、多くの方から断片的に聞いたものもあり、お茶屋新宅の市原勇次郎氏には政府軍詰所の勤務記録がある.こ札によれば村人も兵糧、弾薬運びに従事している.私の家には祖父が「鹿児島賊徒御征討之際尽力候に付為其賞金弐円下賜侯事 明治十三年三月廿五日 熊本県」という書状を残している。之に類するものは、他でも見かけたので、まだこの地方には残っているものもあると思う.

                        (四十年七・八月 広報一の宮)