最後の百姓一揆
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最後の百姓一揆

 明治十年一月九日、小国下城に端を発した農民の暴動いわゆる阿蘇一きは、二月末日阿蘇谷にくだり、内牧浄信寺において気勢を上げ、三月一日には坂梨地区に潮の如く (誇張でなく)おし寄せた。その数三千はくだるまいと思われる. 赤ン坊をとりのこして外輪山中に逃げた母親もあったくらいだから、その狼敗の程もうかがわれようというもの。(古閑の高木ヒサエ談)

 この年、一きのさわぎひとまず鎮まった時、お茶屋新宅の市原勇次郎は、時の県令富岡敬明(土佐出身)宛に被害状況を報告した.目録の末尾に(原文は片かな)右は本年三月一日党民暴挙の節、打ちこわされ侯。0概略、前件の通りに御座候 この段お届け仕り候事 明治十年丁丑四月三十日第十一大区三小区坂梨村千四百拾弐番地 士族 市原勇次郎とある。先年私はお茶屋本宅を訪ねてこの記録を見出した。明治調の例の漢文めいた文章で仲々の達筆である。随分苦労して判読しそれでも分らぬ箇所は、尋ねてもみ たがまだ解ない文字が少々残った。勇次郎の孫助一とは同級だったから、よく遊びに行ったものだが、大正末期に使用人大勢で、ひる飯時には拍子木を叩いて呼び集められていた。それ程の豪家であったら、当然一揆の目標となり、徹底的な打撃をうけた。

記録を読むと一世紀前の地方豪家の生活の程がうかがわれる。一応順を追って記せば

一、居家一軒 四間半梁に桁行九間三方に一間の下家三階付 但し屋根瓦ことごとく投捨て打割り住八本切ヵ折りその余下屋の柱に至るまで、すべて打削り間内天井敷居鴨居ふすま障子板戸ぬり璧外雨戸同じく障子一切大破、九十枚余り内過半破損仕り候 これらの柱は後に、ていねいに修理しおおわれていた。 一、土蔵一軒 二間半梁に桁行六間、但し戸前二間大破 ことごとく切り落し腰壁二間半棄損 その他少々破損仕り候 その他建物では物置一、釜屋一、雪隠湯殿四など。裏門と中門、塀十八間は巻倒されてしまった。夕ソスを打崩して銅貨三一十円を投散らし、書籍三箱−書画一箱、よろいかぷと、五領も破損紛失した次に一、砲器雷降弐挺 但し破損仕り候とある。雷降とはライフル、このあて字のうまさには驚いた。なるほど当を得ている。他に武器類は刀剣十三振、大弓壱張、矢二手刀掛二前鏡八面、丁子璃壱対・唐金燭台、机、火鉢十九、ドオコ、煙草盆、半銅十五、茶坪−小タンス一、戸棚二、塀風二枚. 衣服寝具では長持三、クンス三・ヒツ七等・珍らしいものに

一、     御タネ人参 五斥程 一、右同種子 六升程 紛失れにに付随して「製法用空蓋百八十枚、同火室三つ。 同さな拾枚、同切り溜十四すべて破損仕り候」がある。また日録は続く。ミソ桶七本シヨ−ユ一石六斗余。大小の羽釜館子すべて拾三、二三階にしまっていた漆器陶器の類は「存在一品もこれ無く候」ということになる.その他、鍬鎌手斧金物一切、女工品の木綿バタ、糸車類も破損紛失。念入りにも大分県鶴崎のそま師より預っていた木ビキ道具もすべて紛失してしまった。定めし一き勢のよき崩し道具になったことであろう。

 ふしぎなのは土蔵がやられているのに、米の被害の一俵もあらわれていないこと。 もっとも他家においては、荷車を逆に大戸にぷっつけて打萌し、俵を破って堀にうち込んだという例はある。

 阿蘇一きは当時県下最大の規模で、そり中にあっても坂梨郷 (三小区) は一段とはげしかった。県立図書館の記録によれば、被害の程度は重い方から一等二等の等級 て表し、八等くらいまである。県下で家屋破壊七十三戸、内阿蘇郡六十四坂梨郷を記せば

熊本県第十一大区三小区暴民破毀 (き)表 一等菅 貴 市原惟房 栗林桂蔵 市原埋平大  高宮広雄 二等菅貫 三等井手義敬 五等佐藤仙平 総計戸八・金二百七円

 また別の個所で一等市原勇次郎 菅市五郎 家入勝三郎 宮川経延  岩下常八 山部十四蔵 山部経冶 岩下改八 井野斉 古閑太直 栗林甚十郎 坂梨友吉 佐伯水門 二等宮 川直衛 三等岩下新一 総計戸十五・金百四十二円

 「役と名のつくものはコーヤクでも打ちくずせ」のスローガンのもとに、決起した百姓一きのすさまじさが、思われる。

 明治九年九月頃から、県下にはおだやかならぬ空気がみなぎっていた。七月召集り第一次県会で論議の中心となったりが、戸長公選てあるが、県令富岡敬明から 「一区戸長選挙法配置法など改革の儀は、いずれも実施不都合の次第これあり、会議に付すべき見込これなく候につき、書面それぞれ差戻し候こと」と軽く却下されたのが、そのきっかけである。とくに民権党のつよい城北において不満が増大した。新年早々鉾先は官選戸長に向けられた。叩けば必らずほこりが出る.農民の直接関心をもつ民費、地租改正費にからまる不正を提げて戸長に追った。戸長詰所の前にはわら人形を立て、それに竹槍を刺して震いあがらせた。県庁は強硬手段に出、戸長征伐のリーダー格の堀善三郎広田尚らを捕えたがこれは人民の怒りに油をそそぐ結果と有った。(下略) (県史料集成十三集・西南役と熊本)