厨 亮俊の死 厨 亮俊は筑後国御井郡の人で、幼くして僧籍に入り比えい山にのぼって、天台宗の奥義を究めた。かたわら和漢の書を読み、後には権僧正となって延暦寺中り観泉坊に住み、また筑後高良山の蓮台院の住職をも兼ねていた。この寺が明治維新に際し廃寺となったりで還俗して、軍記と名を改めた。明治七年の蓮台院再興にあたり、権僧正亮憲の弟子分となり、山内の某院に起居し、江藤新平の佐賀の乱には順逆の道を説いて廻った。 西巌殿寺は明治九年に再興されるが、亮俊はその住職として赴任し、門徒はこぞって帰依し彼の徳を仰いだのであった。 十年、西南役は阿蘇に及び、呼応して打崩しが起こる。亮俊は薩軍討伐の勅書と旧藩主(藩知事)の示論文を受け、黒川村有志と共に各村を廻り、名分を説いたのである。阿蘇谷内では官・薩いずれに就くか、に迷っていた手もとに、熊本の日本談義社刊の「西南役と熊本」という、県史料集成第十三集がある.熊太女子大郷土文化研究所の編によるもので、県立図書館に蔵される文書などを収録していて、明治十年の坂梨郷の様子は、手にとるように分り、調査には欠かせない。この中に 「厨 亮俊 賊の為不慮の死仕り候概略目安書」なるものが、第七章「大がかりな阿蘇一き」の中に出ている。 例によって、明治的候文で、和語漢語入りまじっての読みにくい文章であるから、現代文に意訳することにする。 第十一大区一小区坊中町百三十番地 谷帰という者の記した詳細な報告書で、谷帰は戸長などの役職にあった人であろう。 厨亮俊の身柄のことは、願い書の控一冊を差し出した通りであります。法雲寺の住職野坂帰水は病気であります故、右亮俊のことについては観音堂境内に移し、葬式法要や説教なども近く致すことにしています。 先般の上様よりの、お書付のことについては、最初神官の得能自在と共に、当区内の村を廻って読みきかせ人々に説諭していた様子であります。このことについて種々の疑惑を生じ、元黒川村の次郎平たち数人は、亮俊に尋問のことありといい、次第にガサツ (裁察) を仕打をなし、酒代をもねだったようてすが、詳しいことは私にも分りません。 一、四月十一日の夕方、法雲寺の召使の者が馳せ来って申しますには、先刻より東黒川村の円太郎・虎次郎・儀太郎の三人が寺に来て、住職にけんかをしかけ、言語同断のふるまいで、今住職を馬にのせ、坂梨の本陣に連れて行くぞといって、虎次郎は馬を引きに帰りました。 円太郎らのい いますには、先日の説教の中にあった阿蘇谷の打崩しの際 (三月初)、東黒川にも五名程の頭がいるというが、五名とは誰々かと聞いたが答なく、坂梨へ連れて行ってから、よくよく調べるぞ、五名とは聞き違いではないか、いや間違いではない証拠人には儀太郎らもいるなどと問答を交わしました。そこへ虎次郎が馬を引いて来てさあ馬にくくり付けようと呼ばわったので、そんな振舞いはするな、この方は高良山より私がお招きしたお方故、私一人ででも差止めようと思う内に、東黒川の才次郎、町内の嘉四郎、南黒川の彦太らが来て、仲に入り取計ろうとしました。虎次郎・円太郎の二人は大酒に酔っていて、前後不揃いのことをいい、近辺の者も来て虎次郎たちを止めようと、二三時間もかかりました。私より今晩のところは、おれにまかせよ、またいうことがあれば明朝にしようではないか、という次第で別れました。 一、翌十二日の昼頃、才吉が来て、只今町で虎次郎に会ったところ、亮俊のことはどうなったか、お尋ねしてくれといいますので参りました。そこで私は昨夜のことは皆も知っている通り、大いに酔っていたので、今朝本気になって考えたら、そのままに取消されよう、そうなれば私も何もいわぬ。どうしても承服できないのであれば、筋を立てて調べようと才吉に返事しました。オ吉はお話の趣そのとおりに伝えますといいます。私もこのことを円満に解決しょう、と思いましたのでオ吉を同道して、円太郎らの家に行き、あなた五合、私五合にて呑み合い、和解するようつとめました。ところが彼らは亮俊の方から断りをいえといいます。私はこのことには同意せず、そこで彼らを連れて家忙帰り、酒の一杯も呑まなくては安心しないだろうと思いました。私は五合買いなどしなくてもよいこちらには沢山もっている、食べさせもしよっと思いました。円太郎らには、決して手荒なことはするな、彼らもこのことを他の者にも伝えようと帰りました。その後才吉からは何のうわさもありませんでした。 十三日に円太郎・虎次郎・福太郎・次郎平・与市とか申す者ども都合七、八人薩人一人が法雲寺に来ていることを聞きましたので、茂人・熊雄・晃全を次々にやって見させましたところ.薩人がいうには「官軍より大金をうけとって説教し、薩軍調伏をしたことに間違いあるまい。その金を出せば、この場ですまそう.本陣まで行くことはない」とくり返していたそうです。 そういうことはないので「ては本陣へ連行するぞ、早く致せ、着がえは衣裳だけにせよ、衣ケサの類は許さぬぞ、大金あれば肌につけよ」と申したそうです。坂梨では六・七人の者が付いてごうもんしました様子で、終に本月十四日の夜八時頃.薩軍本陣で落命致しました。この段お達し申し上げます。 明治十年四日十七日 最後の方がこの書では、じゅう分に伝えられていないが]阿蘇郡誌」は次のように述べている。その徒数人、白刃をひらめかして師に迫り、掬間酷簿至らざるなく、或はこん棒をもって、でん部(尻)を乱打し、甚だしきは竹管をカンして五指を一々砕折し、流血りんり惨状実に見るにしのぴす。師思えらく、人誰か良心なからん。至誠と道理をもって之に当らば、いづくんぞその罪を解くに難かんやとこ……ごう間一昼夜の長きに至る。師その争うの無益なるを覚り、口を閉じて言わず、只時に苦悶の声を発するのみ。 翌十三日竹田の官軍は、暁霧に乗じて、滝室坂馬場坂り賊塁をおとしいれ坂梨に入る。時に師は死にひんせり。有志これを解き、湯薬を施し、つぷさに戦勝を語り聞か せたが、亮俊に生気なく、最後にかすかにえみを見せたという。 法雲寺を囲まれた時、ののしりの声は絶えず、師は悠然としてかたわらの一瓶子をとり二・三傾けながら、炉辺にあった一枚のツケ木をとり上げて、たわむれに左の一句を記し傍人に示した。 こうしてこうさきゃこうなるもりとは しりつつこうさく山ざくら 尚むかしは亮俊の苦悶の声を開いた人も実際にいてこのことを語っていたし、指を折られた話はこどもの中にも生きていた。またつながれた桜というのも、大黒屋うらに残っていたが今はない。大正の終りに西巌殿寺で五十年祭が行われ、小学生は「厨亮俊僧正の 遺徳はかおる五十年」と歌った。墓は勿論ここにある。 戦争のドサクサでは、兄が弟を殺す事件も坂梨に起っているし、尾が石では山内柳八がやはり薩軍りために惨殺されている。 |