一枚の古地図
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 一枚の古地図

 私は一枚の九州古地図を持っている. 地図には、さいわい 「文久二年戌春江戸日本橋三河屋而求之 渡辺常太郎」と、祖父が署名している。わが家に残る古いもりで、年代のはっきりしているのは之くらいである 。この祖父は安政元年(一八五四)正月、長岡監物が、乗船来航の相州沿岸警備のため藩兵三〇〇を率いて、上った中の一人てある。当時二十一才であった。他にも坂梨近郷から、この行に参加したものが数名いることはきいている.いわゆる浦賀詰といわれるものである。この祖父が、文久年間にまた江戸に上っていることになるが、何のためであったかは分らない。さて、地図のことであるが、これは「浪華友鳴松旭」の作であり、版元は前記「日本橋元大工町三河屋鉄五郎」となっている。正しくいえば、これは絵図てあって、その見出合文 (みだしあいもん − 今日でいう凡例) には国名、御城下、名所寺社、宿名、御関所、街道、海路だけの簡単なものであるが、何しろ版画同然の技法で板に彫ったものであろう。

 国名は筑前 筑後 肥前 肥後 豊前 豊後 日向 大隅 薩摩の九つで、それに二十九の城下が記され、それらは「細川越中守般 熊本五十四万石 江戸より二百八十八里」 の要領で説明されている。つまり二十九人の大小名の禄高が、一目瞭然としているわけである。 この絵図のできた年代が、評らかでないが、例の伊能忠敬の測量より、大体四、五〇年を経ていると思われる。                                                                                                忠敬は文化七年(一八一〇)に大津、内牧、坂梨より豊後へ、そして九年には、ふたたぴ高森から日の尾峠を越ええて六月二十四日に坂梨着。前回の測点の連綴を行った。

 それは彼の死より六年前で、六十八才の高令であった。思うにこの古地図も、それらを基にして作られたものであろうが、九州の海岸線は今日のものに近い。しかし島の部分は、余りにも実体とかけはなれている 。例えば天草は一島で、談合島はその南西にあり、位置が全く逆になっている.また方向、方位を定めることもまだ幼稚で、坂梨は内牧より北になっている。坂梨の地名が板梨になっているのも、古い時代の版らしくておもしろい。 土へんが木へんになったり、木へんが禾になったりなど、この時代のものでは珍しいことではないようだ。私はこの古色蒼然たる地図を、先年表装して、百二年前江戸の地において、之を求めた若き日の祖父を偲んでいる。            (四十五年四月広報 一の宮)