同窓生点描
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同窓生点描

 

             渡 辺 文 吉

 

 人物を選び出して書くというのは難しい。 その基準について、自分なりに

 ○故人であること ○朝日・熊日の入国記に登載された人 ○山本十郎薯の「阿蘇魂」 からも、とりたいと思つた。もひとつ、村に残って特異な仕事をし、しかも永年にわたり公共につくした人に、力を注ぎたいと思った。 他に人物を書いたものには、熊日が明治百年に際し、県下の「入物誌」を一日一人で、相当の期間のせたことがある。坂梨からは藤井日達・園田父子・菅 慎雄・神山エツ等の先輩諸氏であった。「阿蘇魂」にもこれらの人は細かく写されているが、これとても個人の仕事であり、隈なく人選することには、定めし困難があったであろう。 はじめての冒険を、敢えてしたわけである。 熊本日々新聞は昭和四十七年に、朝日新聞は三十九年九月から四十年一月にかけてのせた、「入国記しの中から、坂梨出身を拾ってみた。

 

 まず 藤井日達は熊日において、一日分を一人で占めているので、すべてを写すことはできないから抜き書きにしたい。藤井は一の宮町坂梨の生れ。貧しい農家の二男坊。ひ弱な子で、母親に連れられては、よく天神様や観音様にお参りした。幼少から信仰の芽は養われていたわけだが、本格的に関心をもったのは、大分県臼杵農学校のとき。ここで藤井は札幌農学校を出た教師から内村鑑三の話をきく。内村は無教会派のクリスチヤン。藤井は魂の神格化を説く内村の主張にひかれ、著書を読みあさる。ところがたまたま日蓮について書かれた、論文を読んで日本にキリスト教におとらぬ宗教があつたことを知る。「立正安国論」を読むにいたつて、釈迦の教えを縦横に駆使した完全な「聖書」と感激、さらに文蒙高山樗牛が日蓮を「日本歴史上の第一人者」とたたえているのを知るに及んで、ますます傾倒していった。

 やがて父母の反対をおし切って、卒業と同時に臼杵市の法音寺に躯込み、仏門に入った明治三十六年のこと。翌三十七年日蓮宗大学(現在の立正大学)に進み、ついで浄土寮大学院等に、十一年間にわたって、日蓮宗・天台・真言・禅などの各派教学に取り組む。 こうした研鑽の結果、ますます日蓮の教えの正しいことを確信した藤井は、大正六年いよいよ大衆教化の道に入ろうと決心する。(中略) 藤井はます宮城前を出発点に、七百年前、海外伝道に施立ったという日持上人の足跡をたどって布教にのりだした。 三十三才だった。

 その後朝鮮に入り満州に渡った。遼陽、大連などにつぎつぎに寺を建てていった。昭和五年母の死を転機として生涯の誓願「西天開教」・・インドに仏教を広める− の門出につく。 やがて印度独立のガンジーに縁を結び、知過をうけた。不殺生の平和主義とガンジーの非暴力の思想が、共感を呼んだのであろう。 しかし布教の適は決して平たんでは

なかった「不殺生の教義は非戦に通ずる」と尾行がつき、拘禁された。なぐられたり、けられたりした。日蓮宗本山からも「日蓮宗は戦う宗教平和主義は教理に反する。仏舎利奉安なぞも言語道断」と異端視される始末。支那事変や大東亜戦争の間も、近衛文麿はじめ陸海軍に仏舎利を贈り、和平回復に建言するなど、思い切った活動を続けた。だが、そのかいもなく、日本はドロ沼の戦いにのめり込み、ついに敗戦。朝鮮金剛山から引き揚げた藤井は、この敗戦を「亡国」と断じ、焦土ご上に再び平和日本の建設を決意する。そして平和文化国家象徴のために、発願したのが仏舎利塔の建立だった。まず花岡山頂に八年がかりで、完成させたのをはじめ、北は北海道から南は九州の各地にもつぎつぎに宝塔が、

そぴえ立ち、あるいはその基礎が固められていった。とくに三六年熱海仏舎利塔尊成式には、二十四か国の駐日大公使が参列した。また藤井は世界宗教者平和会議を提唱、世界各国の宗教代表を紹いて三十七、九年の二回、会議を東京で開き、平和に対する宗教者の新しい役割を明らかにした。

 そして今年(四十年)三月、クリシユナン大統領が出席して完礎式をあげた、インド王舎城の仏舎利塔建立と仏跡復興に、異常な熱意を傾けている。教義はソビエト語にもほん訳され、思想的にも正しい信仰に根ざす宗教者の平和主義として各界の共鳴を呼んでいる。

 「宗教というのは心の救いであって、家内安全や商売繁昌とは、無縁の有在です。いまこそ日本人は本来の仏心に目ざめて、平和な社会をつくるべきです」 朝日の評は略する。

 

 両新聞がかいた時、七十九才だったから、ことしは丁度米寿だった。かって雑誌文芸春秋が選んだ宗教界十傑のひとり、宗教誌「大法輪」でも彼の一日の性格が紹介された。三十八年には、県より近代文化功労者として表彰され、一の宮名誉町民でもある。村出身中もっともスケールの大きな人物である。坂梨校明治二十九年の卒業。本名は芳雄。豆札の人である。

 

 両新聞にはまた 山口白陽 が登場する。熊日の分だけを掲げる。 山口白陽も教育畑出身。熊本第一師範を出て、郡内の小学教師をしたが、文学や絵が好きという青年だっただけに、教師という職業はあまり性に合わなかったらしい。 昭和のはじめ九州日々に「墜(お)ち行く人々」が、人賞したのをきっかけに文筆活動をはじめ、「火の国小唄 「六師団行進曲」 「日本産業歌」などの作詞がつぎつぎに入選いつの間にか作詞家になっていた。

 昭和八年招かれて県教育会に入り、雑誌「熊本教育」を編集。そのかたわら「死する道」「追腹是非」「杖立騒動」などの通俗小況を発表した。戦後はNHKを経て県庁に入り、広報紙を編集しながら、伝記物を多く書き、校歌、民謡をよく頼まれた。作詞したものだけでも二百をくだらない。二十五年独力で月刊郷土雑誌「呼ぷ」創刊五十四べージの随筆、消息集だが、取材、編集、校正 発送まで夫人と二人で切り廻し、すでに六十七号を重ねた。まことにクフにして粘り強い。宮地出身。 本名経光六十七才

 

 朝日のは省く。四十八年十二月で雑誌は百六十六号。その姉たちと共に裁判町から坂梨校通い、明治四十二年六年制度の第一回卒業生。近年肥後狂句と熊本ことばの調査収集に余念なく「ユーモアくまもと辞典」を脱稿、刊行する

 

 朝日入国記は、福田十郎 について−の宮出身の福田十郎(七〇)は、京郁で小児科開業県人会長をしているが、「科学生活.を提唱、田々土、骨軒の俳号で文筆にも親しみ健在。

 (筆者)は小学二年生の頃、牧野校長が朝会で、先輩の福田さんが医学博士になられたと、伝えたのをハッキリ覚えている。阿蘇で最も早い方で郷土愛が強く、先年学校に世界大百科二十三巻を寄贈し「わしが坂梨校に行た時、本棚にターダ飾ったごつしてあったなら、校長ばおごらにゃ」といっていたそうだが、惜しくも昨年夏没した。七十八才。明治三十七年の卒集生。

 

 菅 真弘は熊日でこう評している。菅真弘は旧地主出身。日大エ学部卒で、東京の建築事務所にいたこともあるが.戦後帰郷して会社を経営したり、一の宮町会議長をつとめたりした。一年生議員だが、 まじめさを買われている。坂梨出身で四十七才。昭和五年の尋常科卒。前述した花岡山仏舎利塔は全国初の建立であるが、菅の設計、その他熱海、小倉の高塔山、青島、仙酔峡、本渡のも手がけた。坂梨校体育館も、その手に成るものである。

 真弘を書けば、その先代先々代についても一言しておきたい。以下山本十郎の「阿蘇魂」によってその業蹟を伝える。当時の家長は實(みのる)という。一家の経営は極めてしめやかにして冗費なく、さりとて出すべきは常に真先に出して答ならず、累代の蓄積は年々かさみて多額納税者となるが、明治の当初国庫は窮乏を告げ、国防ま た献金を要するに当り、大枚二万五千の大金を献納した。之を今日に換算すれば恐らく億を数うべく、人皆その勇断に驚いた。 当局またその功を賞して藍綬褒章を下賜した。当時にありて実に珍しく、わが郡には類例はなかった。平生公私ご事業助成の功績が加わっていることは言

 うまでもない。

  さあれ菅家には不幸にして相続者がない、ために分家東虎屋より養子として慎雄に家を継がしむ。慎雄中学済々黌を了えたが体質弱くして学に進むこと能わず、家庭にありて摂生につとめ次第に健康を回復し、年少ながら大家の経営に立つ。 夫人は歴史も古き吉田追風善門翁の長女である。琴審相和して基盤いよいよ固く、彼かっで県会議員たりしことあり、井斤黌長筆者(山本)に語りて日く「菅は言葉少なく、いわゆる不言実行の人で殊に数理に精し、県会における予算審議においてはなくてはならぬ人物で、年歯は若いが重宝である」と。(中略) 彼に勲章なく褒章なし、彼は善事にくみし、美事を助くることを知るも、之についての報謝を予期したることなく、それは彼の最も忌む所である。彼の善行実績甚が多し、而も彼は之を公表するを好まない、筆者それをニ三知るも発表するは本旨に反するをもって、之を記さない (下略)

 熊日の九州人国記は阿蘇地方取材の最後に「閑話」として小国からは文人、阿蘇谷は宗教家・教育家、南郷谷山軍人・・・・古くから言われている郡の人材分布である。

このことはその地域の経済力にも関係がある、というのである)

 このページに 藤井祐人(故人) を、耕地軽理の権威、元東京農大教授として取りあげ、若手から、家入三郎を「財界」で奈良ヤクルト社長と紹介している。昭和十年の尋常科卒業で、学校おもいである。 以上で両新聞人国記の関係分を終る。

 

 

 明治四十一年の四年生制度最後の卒業生には男子二十三名がいるが、一風変った級である。前記の山口白陽、「坂梨を描く文学作品」に紹介するフヲンス文学の高瀬 毅 この二人が後に文筆をもって世に出たのも、坂梨としては珍しいことである。他に四十年も前に大阪市で、社会党系から市会議員になった 甲斐 績(市原分の弟)と日蓮宗の 吉岡定男 がいる。

 吉岡については親友白陽は、自分の主宰する郷土雑誌″呼ぶ.に、彼を書いているので、それから採りたい。

 同級生中の親友にYという秀才がいた。学問は常に級友のトップで、村一番の素封家菅慎雄氏が、毎年寄贈しでいた桜(品行方正)梅(学力捷等)桐(無欠席) のメダルをいつも揃えるのは彼ばかりで、同輩ご畏敬を集めていた。文章もうまく、当時私たちの愛読していた少年世界や日本少年などの文苑に、投稿してはよく入賞していたのも、私などには特に敬意を払わせた。(そして彼は臼杵中学に、白陽は熊本師範に進学し文通していた。 )三十を過ぎた頃には、そうした仲も全く音信不通となったが、戦争の終った後、世情混乱のさ中に、Yは突然日本山妙寺法の僧侶として熊本に帰った。鼻下とあこにヒゲ

を蓄え、頭は全禿に近いという風貌に、柿色の粗衣をまとい、団扇太鼓を手にして忽然と私の前に現われた彼に昔のイメージは全くなかった。当時私は県の広報課に勤めていたが、自来しばしば逢ううちに、彼の経てきた半生の告白がこの間に空白を埋めてきた。 Yは大学を出てから満州に渡り、日達上人の布教を助けて一寺院を経営し、蒙古地方にまで足跡をのばして、強固な地盤を柘いた。偶々大戦が勃発し、やがて敗戦のドタン場になると、彼は匪賊の襲撃に遭うて半死半生の傷を蒙った。特に頭部の打撲傷がひどく、以来折にふれてはそれが傷み出すし、記憶力判断力も著しくにぶって、前歴を維持することもできず、今は僅かに妙法寺の一沙門たるに過ぎなくなったというのである。

 とかくして、二、三年はすぎたが、年が明けて間もないある日、妙法寺の最も熱心な信徒である島田四郎熊日社長から、意外な消息が伝えられた。

 Yが正月早々単身富士登山を敢行して山上に凍死したというニュースだつた。 意外だったがまた自然な気もした。勿論yが、とんな気持で厳冬の富士登山などという暴挙を敢てしたかは想像の限りでないが、妻も子もなく、よるべも乏しい彼、敗戦の余殃として受けた傷痍になやむ彼を思うと、この破局は、余生に絶望して自ら期した自殺行為でなかったかといういたましい想像が、卒然と胸に湧いたからだ。そしてこの推定は今も訂正されないままでいる。

 

 甲斐 績は戦後に、大阪から帰って久しい間村にいた。別段仕事があるでもなく、学生帽を破っての若づくり、飄々としてよく学校にも寄り、一人で談論風発していた。八幡さんが来ると組のニワカ行列の先頭に立ち、太鼓のパチを取ったり、子どもを集めて手品を見せるという無邪気さであつた。家に行ったら小泉八雲全集を揃えていた。本来は薬専出の薬剤士、今吐奈良にいて健在だ。

                                                           新春の一日、円通寺の住職巌木静之とコタツの中で閑談した。その時に出た人物にふれる。

 市原助雄は多年家にあつたが、昭和のはじめ農協の前身産業組合に着目して、夜毎に部落を巡り産談会を開いて、農民にその必要を説いた。創立にあたっては菅・市原両家が資金の大半を拠出し、一般は十円を五か年の年賦にしたという。勿論郡では最初の設立であり八代郡金剛利と共に県下組合の双壁と山われた。この人は書もぅまく、漢詩も作った。戦後私は「学校の門札を書いてもらったことがある。古い専修大卒業、坂梨では梨陽校

第二回の明治二十二年卒。 朝に月光を踏んで田に行き、夕、星かげを仰いで帰る、というむかし農人は、家業に励むだけで精一杯というのが、むしろあたりまえの姿であつた。そういう人々の中から体をはって公事に、ほとんど一生を捧げた人がいる。古閑 清は遠く大正の末期に、農業経営の中に畜産をとり入れることを痛感し、そのために牧野改善に着目した.昭和八年に馬場豆札牧野を農林省指定とし、第一次は五か年計画次いで三か年計画で面白を一新したが、戦時に入った。戦後一期三年渡辺誨、その後二期 巌木静之 が指導を担当して再び古閑に移った。二十七年上カ県指定、三十三年より亦農林省指定をとりつけ、現在は面積ハ十ヘクタールの近代的施設をもつ牧場となった。改良牧草は冬も緑に満ちている・古閑急逝の後三十七年四月、牧野委員らが発起人となり坂の上の牧舎前に「古閑清君之碑」を建設した。書は当時の寺本本広作知事に上るものである。

 尚、牧草改良は全国で三か所試みたが、成功したのはこの牧場だけで、そのパイロット的地区の役割を果したものといえる。明治三十三年の卒業である。

 

 同じ豆札の人で畜産界に貫献したのが園田杵島である。太邑の長男で、子どもの頃から馬を乗り廻し、学は弟春耕にまかせていた。明治三十年二十四才の時県から種馬購入のため青森県に出張し、帰路岩手県千葉県の馬匹改良の実状を視察した。やがて坂梨・古城・汲野・産山をブロックとした蘇東蓄産組合を組織したり、牛馬のセリ市を開き畜産界の近代化につとめた.その仲買人の仲間に入ったときは家入、知人の猛反対を受け「学者の子が博労か」といわれた。本人は虎児を得んがためには虎穴にも入ろうという冒険であつたが、セリ市の利害得失を体験したことは、業界の発展に役立った.四十五年郡産馬牛組合会(後の畜産会)議員に選ばれ、大正八年には組合副長、十一年には組合長に推された。これより先県では牛馬組合連合会の議員に当選し貢献している.十五年一月彼は競馬会の馬場取締として出熊したが、流行中の腸チフスに感染して亡くなった。父に先立つこと三年、まだ五十四才の働き盛りだった。生前中央畜産会から功労章を、馬政長官から銀杯を受けている松山公園跡には「園田杵島君之碑」が昭和十六年に建立された。県畜産組合連合会長三善信房の文を菊池東郷が書いている.隆成校時代の卒業生である.

 (参考書 阿蘇魂−山本十郎 阿蘇百年の人物誌−熊日明治百年に際し編集)

 高木満雄は養蚕歴五十年という、この道のベテランである。由来養蚕業は世の移り変りに左右されて、盛衰浮沈が烈しいように思われる.戦争中は桑を抜かされて、主要産物に切りかえたこともある.そういう時にも高木はとにかく養蚕を続けた。阿蘇中部養蚕協同組合副会長であり三年前には永年功労者として県表彰を受けた、村の先達である。大正四年の卒業.

                      

 町古閑牧野は町から江藤楕一、古閑から古閑常義らが世話していたが、昭和十二年頃に合併戦時中は軍用馬の生産に協力して来た.二十五年頃より八木悦男が組合長となり、自来二十余年、一貫してその職にある。二十八年の大水害後県は水源涵養の植林を勧めた。八木は採草不能地、急傾斜地などを利用してこのことを取り入れ、大植林を施して二十年成果は大いに認められる時を迎えた。先見の明といえよう。八木も大正四年卒。

 

 巌木静之は昭和二年大津中学に進み、二年修了後山口県多々良中学に転校、卒業後東京に出たが、都市に居るを好ます.志をひるがえして福井県永平寺の本山に入った。きぴしい修行を二年受けて村に帰ったが、やがて開戦 十五年に内原訓練所入り、同行に吉田義興、小林勝久がいて、三人は三か月みっちり訓練を受ける。公共心強く若くして、村の主要人物に交わって愛され、農事にも通じ馬場部落や村の指導的地位に立った。町教育委員

長、村農協の理事監事を勤め、寺院の経営にも熱がある。

                                                             寺院といえば浄行寺がある.先々代は素雄師、五十才代の同窓生なら、明治天皇祭・乃木大将の命日に、御堂に坐ってその講話を開いたことを覚えているだろう。この人は学問の道に深く井上円了・暁鳥敏・鈴木大拙らとも交わりがあつたと開く。書をよくし詩も作ったが、園田蘇門の影響もあったであろう。友人素六がいたので、遊びにもよく行った.戦時中の−正月、勅題の歌と共に

 

 魔風また妖雲  変幻乾坤を悩ます

 我に無双の剣あり 銘していふ日本刀

 と、まことに立派な文字で漢詩を書いていた。若い頃のことだが、万朝報の都都逸に

 明日は焼かるる牧場の草に

    露のいのちを 虫が鳴く

 が入賞したこともある。

 福岡部落出身に市原鶴雄・強の兄弟医学博士がいる。共に坂梨校から阿蘇農業を卒業しただけの学歴で、揃って学士号の全的を射た篤学努力の人である.学究の道を選んだ者は、村には多いが博士となったのは五人だけであることからも、その厳しさは推察されよう,

 兄鶴雄は「ライの研究」が主論文で、弟の強は「ウイルスの組織培養」で京都大学の審査をパスした.共に熊本の化血研に勤務し、一筋の道をたゆみなく歩き、解剖の技術も抜群ときく。両者は県獣医学会・細菌学会の主要メンバーで関係する学会団体も多い。百周年記念式当日久々に会つたが、兄はやや健康を害している様子で、回復の早からんことを祈る。弟はその前日長い台湾の講演旅行から帰来したといい、意気旺んなところをみせた。鶴雄は大正十三年、強は昭和二年の高等科卒業である。

 坂梨から熊本師範に進んだ者が、明治だけでも卒業年次順に並べると、糸永祐明(一六)が最も早く市原源六(二〇)藤井寅作(二一)師井大太(二四)岡田光雄(四○)高木(江島)磯熊(四一)の六人がいる。女性は渡辺リキ (三九) の唯一人である。

 この中で市原源六は年少にして、小楠門下の村井寛山塾忙学んだというから話は古い。その後師範に入って二十年に卒業し、坂梨校教師となったが、記録では十九年から坂梨校長である。この辺り喰い違いを感じるが、二十年に校長制がしかれているので、市原が初代校長であることに異議はない。 昔は師範を出てすぐに校長になった例も珍しくないが、職名も訓導兼校長といった。初期に校長は職員と別個にいたが、あるいは文字通り訓導 の性格の方が強かったのかもしれない。村から師範系に入った者は男約三十人、女は僅か四人だけの寂しさである                                   

市原のあと村出身では高木鉄臣・内山田正克が校長となった。人物点描の最後に女性から神山エツを描写する。不撓不屈のナンバーワンである。エツは旧姓市原明治三年の生れで、隆成校を卒業し、一六年より内牧の裁縫塾に学び、尚絅校を卒業した。裁縫の技術をみがくかたわら教員の免許状をとって、役犬原校・中部校に勤務した。

 当時の阿蘇は女子教育の機関など全くなく、進学をあきらめるおり他はなかった。ここに彼女は、夫九平太と共に女学校設立を決心したのである。(三十一年に結婚)九平太も亦誠実勤勉な青年教師で、二人は子女の教育に情熱を傾けることを誓った。夫婦共々に上京して知識技術を収得した。翌三十五年に帰郷して、独力で宮地裁縫女学院を今村に開校する。スタートは生徒八人だけ、しかし努力を重ねるうちに次第にふえた。 日露戦争に夫が出征して苦労は益々つのる。 カユをすすり裁縫の賃仕事にさえ励んだ。夫帰還後は郡内各地より生徒も集り寄宿舎に収容するほどになって、この時下町の現在地忙移り、経営も軌道にのった。校名は県下に知られ、次第に卒業生も増して行った。

 大正八年に郡教育会、十五年に県教育会の表彰もあったが、昭和二年末は他界した。その後はエツが校長に就任した。十五年には県知事・文部大臣より、二十六年の五十周年に際しては再び知事の表彰あり、卒業生からは安息所を贈られた。晩年には熊日社会賞受賞、三十五年には県近代文化功労者として顕彰され、一の宮名誉町民の称号をうけた。村出身で塾を開いた者教人いるが、女性は唯一人エツのみ。昭和三十七年九十三才の高令をもっ て長逝した。(阿蘇青年の人物誌より)