寄稿「遥かに思う」
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      渡 辺 文 吉

 学校の記念誌で思い出集のないものはない。ほとんどこれで埋められているのもあるが、原稿を集める苦労話も多い。私も十二月初に郡外の出身者二十教名に依頼状を送った。 果して集まりが思わしくないので、途中で昨年のPTA新聞に応援をもとめた。古木惟次さん・志賀通雄さん・小林勝久さんたちのものである。 最後の師井文章は昭和六年に刊行された、「熊本県教育史 上巻」から採ったもので、初期小学校教師の実際を知る上にも、貴重であるし、隆成校の一端もうかがわれるもの。 あらまし到着順に並べた。 寄稿の皆さん、お礼を申します。

 庭に立って    山 口 白 陽        (明治四三年小卒 

 さきころ、墓参のついでに甥(渡辺文吉)の家を訪ね、その案内で坂梨の町はずれまで行って、帰りに木喰上人の刻んだ木像を拝し最後に母校坂梨小学校へ廻った。これまでにも幾度か訪れたことはあるが、いつも忙しいスケジュールの中で、せいぜい前庭をのぞく程度に終ったが、その日は多少余裕もあったし、正面校舎から後庭にまで足をのばして懐旧の思いに浸った。 この学校で一番有がたく思ったことは、正面校舎がほとんど旧態のまま残されていることである。玄関の上にある梨の彫刻、上り口の石段、右手の職員室、二階の広間、どれもどれも、昔の面影を偲ぶに足るほど、殆んど改造の手が加えられていない。

 昔の建物で旧式ではあるが、木口が頑丈でがっしりした木組みは、今も老武者がどっしりと胡座をかいたよう に頼もしい感じを与える。職員室で出では六十余年教わった家入茂校長先生をはじめ、森山先生、井上伝太先生、大山ツナ先生、わけてもお世話になった湯浅 恒喜先生などの、それぞれ特色のある風貌が生々しく甦ってきて、涙ぐましいまでの感傷に因えられた。二階は当時二教室であったが、三大節や入学式、卒業式などには二教室をぷっ通して講堂に充てられた。 ゆくりなく思い出したのは私の卒業式である。吉岡定男君(後花岡山の日本山妙法寺に入って藤井日連上人の片腕だったが、先年寒中の富士登山で亡くなった)の上うな秀才もいたが、どうした加減でか、私が答辞を読まされた。読んでしまってその答辞を懐にしたら先生からそれを卓上に置くように指示されて恥かしかったことを、つい先頃のようにおほえている。 同級生の誰かれも幾人か思い出せるが、その大部分は、すでに幽明をへだてたらしい。僅かに当時から学校の門前に住んでいた平岡正成君が、今も健在であると聞くが、久しく逢っていない。 前庭のもみの大樹(当時そう思った)は案外大きくなっていなかったが、門わきの桜はすでに幹だけの惨めな老躯をさらしている。どれもどれもなつかしい思い出の糸口とならぬものはなく、そっとその木肌をなでて少年の追憶に胸をしめつけられる思いだった。  (熊本市花園町八八五−二六)

  餓鬼大将の記 高 木 祐 介  (大一四年高卒))

 母校創立百年に当り今回記念式典及記念事業が行われ時宜を得た意義深い催と御同慶に存じます。螢の光窓の雪あけてぞけさは別れゆく。思えば一別以来早くも五十年の歳月が流れ去りました。、改めてこうしてペンを取りますと郷里をあとにした身には殊のほかに懐郷の念切切たるを覚えます、私は大正六年の入学ですので百年の歴史の中程を過した事になります。 五十六年前小学一年生になった私は学校に行くのが嫌で毎朝のように駄々をこねて親や先先方を困らしたものでした、わざわざ迎えに来て下さつた先生に噛みついたり蹴とばしたりさんざん駄々をこねた記憶があります。それも何時しか一人で登校する様にな少ましたが勉強などした覚えは更になく学校から帰るとカバンを放り出して遊び廻り夕食にも間に合わずよく叱られたものです。あの頃の先生にはなかなか厳しい先生がおられてぴんたを取られたり立たされたりしたが、いたずらも後を断ちませんでした。体操の時間に木馬を飛びそこね気絶して先生に活を入れられて蘇生し又或る時は鉄棒で大車輪の真似をして落ちて手首を脱臼し今でも其折の名残に骨が横にとぴ出しております。霜の朝の兎狩り、桜の花の咲く頃の浄上寺牧の運動会、新緑の侯の速足これにも失敗あり友人と二人で勝手に下山してしまい二人居ないので大騒ぎして探した由で先生にしこたま油をしほられました。小野田牧の連合運動会でリレー競争に出場したが 一番走者のI君が三回フライングをやり決勝間違なしだったのにオミットされてしまい全く残念でした。よく学びよく遊べと教えられたが、前者には背き後者には実に忠実であった餓鬼大将の思い出の一節、すぎし日のしたわしきことのみ多く懐かしく昔を思う身となれば我れ老いたりか。(延岡市下伊形町二ノ七四)

  回 想 記   家 入 三 郎   (昭和十年尋常科卒)

 創立百年祭を迎え誠に御目度う御座屈ます。私も昭和十年卒業で、坂梨を後にしましたのが昭和十一年頃でした。まだ幼少の頃でしたが未だに坂梨の小学校の事が頭から離れません。当時を思い出しますと広々とした校庭・多分開校当時に植えられたと思われる桜の大木が二本ありその大木に竹がくくりつけてあって登っはすべり、すべっては登ったわんばく時代の楽しさ。黒くぬられた板張りの校舎其の中で思いきりあばれまわった時代 こうして書いておりせすと諸先生方の面影が次から次と浮び上ってまいります。一年生から三年生迄受持っていただ いた、やさしくそして美しかった工藤スミ先生、軍服姿の高木先生、体操の坂梨先生、小さくて可愛いかった厳木先生、其の外北里校長、竹原先生、松永先生、三村先生と叉桜の花咲く頃の浄土寺牧の連動会 十一月三日明治 節の運動会、八幡様の七校連合相撲大会、阿蘇農業の連合運動会等、わんばくだった私は悉く経験して来ました。

 本年十月、昭和十年卒業の同窓会が行なわれ参加致しましたが、すでに他界された方もおられますが二十数名の 方が集られ皆様方が坂梨の礎となられて町の発展の為に頑張られている姿を拝し感謝の念で一杯でした。願わくば変り行く時代に坂梨の皆様方が心を一っにして発展の為に最大の御努力を発揮されん事をお願い申し上げます。今日の式典に参加出来ない事が大変残念です。皆々様の御健康と繁栄をお祈り申し上げます。尚わずかではこざいますが同封致しますので一部の足しにしていただけれ ば幸いと思います。どうぞ皆様方によろしく御伝え下さい。    (ハ奈良市川上町八反田五六二)

 思い出の中の初恋  市 原 鶴雄    (大十三年高等科卒)

 早いもので今年も新春を迎えようとしています。坂梨同窓会の皆様には如何お過しですか。今年の冬は例年に較べて寒くそれに加えて、中東戦争のあおりをくって重油の制限で大変寒い冬を迎えなければなりません。祝坂梨校百年の式典を迎えるに当り不景気な愚痴を申して申訳けありません。 私は大正十三年の高等科の卒業生で、この式典む迎えるに当って発起人の各位には大変な御苦労むなさったものと拝察致します。私、原籍を熊本市に移しましたものの、やっぱり生れ故郷は壊しいものです。

さて在校当時の思い出に関東大地震があり、子供心に当地区の人々の安否を心配したものです。丁度校庭の掃除中のことで新聞配達の号外によって知らされました。 当時の校長先生は牧野先生で確か柿木に住んで居られ、奥様も先生だったという記憶がほんやりと浮んできます。毎日朝礼で校長先生の訓辞が終った後に各教室で夫々の授業を受けたものです。本当に良い校長先生で皆の生徒に慕われていた事を思い出します。次に印象に残っているのが音楽好きな竹原安喜先生でした。先生は激しい反面優しい思いやりの深い先生でした。音楽が得意で小さいラッパでトランペットと普通のラッパの指導を受けた思い出があります。担任も竹原先生だったと思います。竹原先生も男子ばかりでなく女生徒にも好感をもたれていたようです。厳格そうにみえる坂梨出身の石田先生、でも根は優しい先生でした。活発で男らしい佐藤勝衛先生は坂梨出身で運動ならば誰にも負けないという張り切りやでした。色んな面で指導を受け男女生徒にも受けのよい反面又厳格さがありました。 女の先生は二人居られ一人は上町から市原先生が裁縫担当教師として、当時和服に青色の袴をはいて教壇に立たれている姿を思い浮べます。又宮地町出身の坂梨先生は御自宅は牛乳業でした。 後日結婚されて市原姓となられ教員生活を退かれた後不幸にも病死されました。当時、私のグループはやんちゃ坊主が多く、女生徒女を追い廻したりして担当の先生から直立不動の罰を受けたことも幾度かありました。当時私は人並以上にませていて、あれが初恋だったかと思われることもあり今でもはっきりその人の名前は覚えています。でもその当時はその女性とお話する勇気も機会もありませんでした。夜は担当の先生から受験勉強の為学校の当直室で自習がなされたが勉強と遊びと半々で、そんな毎日を過ごしました。そのおかげで現在の人並みな生活ができるようになりました。同級生だった皆さん今日何して居られるか消息を知りたいものですね。では               (熊本市水前寺三ノ糾ノ一二)

 「たより」から    菅   半 作

 啓

 坂梨校百周年記念式典お慶び申上げます。 私は式典当日所要の為、残念ですが出席できませず、不悪 (あしからす)御諒承下さい。

 私が在校したのは、四年生までで、四年修了と同時に父の方針で、熊本の碩台校に転校しました。然し故郷というものは幾才になつても、思い出深いもので、豊肥線の宮地まで開通に伴なう、矢野動物開催、象やライオン・虎などはじめて見た時の感動もさることながら、鉄道開通或は駅まで整列参加した日の、寒風の中、小旗もつ両手の痛いほど辛かったこと、旧雨天体操場新設の際、酷寒の中で、泥踏みをさせられて、泣きた い程だった事など今も忘れません。 同封は些少ですが、基金の一部に加えて下さい。(市内健軍町 二一六九)

   四十八年十二月十一日 (事務局宛) 中 村 為千代 (大正三年卒)

  拝啓

 その後御一統様益々ご健勝のこととおよろこぴ申上げます。さてこの度は同窓会設立に関しては御配慮感謝申しあげます。

 十六日の発会式には、何分にも年末む控え出席出来かぬ、まことに些少ながら 一金 壱万円 御送金申しあげます。万事 よろしくお取計らい相成りたく右よろしくお願い申し上げます。

 四十八年十二月十日 高 木 会 長  宛  敬具

  思 い 出   藤 井 祐 正     (昭和五高等科卒)

 母校百周年の誕生日を心から喜びたい。私の在籍は大正十一年四月から昭和五年三月までの八か年間、現存する同級生は卒業当時の約半数近かくに減っている。他の学校が終戦を境にいろいろの形で大きく変ほうした中で、坂梨校のみは私の在籍時の姿を数多く残しているような気がする。前庭の東一隅にある師恩碑、毎月一日の師恩碑参拝を思い出す。子どもの時と同じように高く伸びているもみの木。正面に学校の玄関をもつ二階建ての現在の管理棟、高等科在籍二ケ年世話になった建物でこゝにもいろいろの思い出を残している。二階へ階設を登りつき当った中窓、当時週番としてこの中窓に股がり始業終業の合図をした「鐘」 かけのあとが今も残っている。特に思い出の大きいのは、この玄関をあがると正面が当時応接間兼会議室であった〇この応接間の中央に丸テーブルがありその真上の天井にふし穴が今もあるはず、そしてこのふし穴はそのまま二階裁縫間の畳孝一枚とればそのまゝ床板に通ずる。 (一板天井のため) このふし穴とその真下の丸テーブル上にのせられた万十には、言い得ぬ私たちの思い出が残っている。折りがあればお話してあげたい。

この管理棟と現在の旧校舎(当時の新牧舎)をつなぐ渡り廊下、昔は中窓にガラスがなく吹き込んだ雪でよく足をすペらせた。また現旧牧舎の二階の間仕切は三大節毎に取りはずして式場を作ったものだ。拝賀式の様子が昨日のように思い出される。校舎西の便所は現在も昔の伝統をよく守って非常に美し。プラタナスの木に囲まれた広い運動場は子どもの頃とあまり変ってない。昼休み時間の 「軍艦遊戯」をすぐ思い出す。 やがて踏み出す百一年から坂梨校のまた新しい歴史が積み重ねられていく。   (大津町)

   思い出一束   緒 方  文(藤井) (大正一五年小卒 在役犬原)

 梨陽の学舎陽に映ゆる 時仲秋のもみち葉と紅もゆる健児の気 中原の野に鹿を追い 月桂冠はわが手にと・・・

 この応援歌を覚えている方おられますか。あれから半世紀、人変り年移り、また校舎や校庭のたたずまいも変ったでしょう。でも眼を閉じると、旧校舎二階の裁縫室渡り廊下、足を洗った井戸、扇形の石設、グラウンドへの石段の二本の桜、たしか扇形の方にも桜があったように思いますが。 自転車を押して草部に転勤された竹原先生を、日尾峠まで涙で送ったのは、三年生になったばかりの時。兄たちが熊本で何かに優勝し、優勝旗と花輪を首にかけて、記念写真をとったのをうらやましく思ったこと。杉山(武雄−戦死)さんが、熊本の陸上競技で優勝、女学校など、熊本の学童オリンピックで百米・巾跳・三段跳びにそれぞれ一位となり、学童リレー大会でも六年四年ー位になりました。体育ばかりでなく、音楽会でもすばらしいのどを賞賛 された人もいます。進学率も抽んでていたように思います。こうしたことは上級から下級に至るまで厚い優秀な層があったこと、学校の伝統と先生方の指導、そして先輩たちの援助のたまものと思っています。 夜学で算術の問題が解けず、校庭を走らされて息をはずせせながら、先生の下手な.パイオリンに合わせてうたい、改めて勉強したり競技会前には、青い月を仰ぎながら、ランニングに.パトンタッチに、青年も共に汗を流したものでした。競技会場にはいつも青年の方も身の廻りの世話や、虎屋西虎星の熊本の方のお世話になりました。

  よいことずくめではありませんでした。理科の時間に菜の花畑に入って叱られたり、先生の留守の時間にさわいで、となりの先生にどなられたこともありました。豆札の渡辺(秀雄)先生は、とてもお話が上手で、習字の時間にはハンカチをいっばい持って行って「中将姫」の話に顔をクシャクシャにしたり、こわい話をおねだりして、訳山聞かせていただきました。こうして生活が、女学校にまで延長され、ひいては社会生活にも及んで、私の人間を形成してくれたと思います。四五年前から同級会を毎年開いて、竹原安喜・岩下満男両先生陸上競技をコーチして下さった松本竜夫・津下正両先生(当時熊商生)、それに牧野校長長女の範子さんとも交流しています。みんなのんきですが、ガンバリ屋ですなつかしいまま気軽に投稿致しました。拙文どうぞおゆるし下さいませ。かがやかしい未来ある坂梨校の発展をいのってペンををきます。

小学校の思い出   渡辺忠夫(昭和13年高卒)

 母校坂梨小学校が創立百周年を迎えるという。一世紀とはなんと気の遠くなるような永い才月であろうか。私が入学したのは昭和五年で、満州事変が起こる前年であり、その後敗戦まで坂道をころがる如く、破滅へと進んでゆくが、私達子供にそんなことが判ろうはずもなかった。一年生になったとき、長兄がそのころ難関とされていた熊本師範にパスしたので、そのほうぴでもあったのだろうか、父は長兄と私を伴って熊本市と佐賀市に旅行につれていってくれた。佐賀駅から人力車に乗り父の知人の家まで行ったが、いま思い出すと映画のシーンのようである。

 小学校のころ最も愛読したのは少年倶楽部であった。兄達が読み終えるのを待ちかねて捨い読みした。平仮名さえ知っていれば意味はともかく充分読むことができた。南洋一郎の南海冒険物語にハラハラし、佐藤紅緑の英雄行進曲の主人公の正義感に感激した。挿絵ではリアルなタッチの鈴木御水、線で構成したような樺島勝一の絵に魅せられた。 遠足・運動会はもちろん楽しかったが印象が強いのは、ストーブのたきつけ取りに行くことだつた。阿蘇がきぴしい冬にはいるまえの一時期で、外輪山が狐色に枯れ紅葉に華やぐ好晴の日、滝室坂のうえの学校林に行って杉の小枝と葉を集め縄でくくる。男の子も女の子もそれぞれ体力に応じて二宮金次郎のスタイルよろしくマキを背負って隊商の行列のように学校まで運んできた。われわれがマキを集めているころ引率の先生達はトウキビを焼いて食べたり、持参した一升ビンで酒盛りをしていた。今であれば目玉を食っていたかもしれない。私も卒業以来三十五年もたち五十才にもなってしまった。思い出は甘美なものというが、思い出になるような出来ことを持っているかどうかが、大切なことのように思われる。いまでも帰郷すると、列車が立野の急坂を登って阿蘇の連峯が見えはじめると、帰ったという実感が湧いでくる。 昨年の正月、同級会があり参加した。多くの友人が健在であつたことを、互いに喜びあった。どうか坂梨の人々よ いつまでもお元気で。    (福岡県太宰府町)

   想い出すまま  松 下 秀 子  (旧 坂本 昭和四卒)

 私どもの入学した大正十二年頃の、坂梨校は、古めかしい石門を通って、前庭があった。こゝでは 朝礼・夕礼が行われていた。師恩碑が東の隅にあって一日の、はじめに拝礼があっていた。校舎の入口に、古い大きな井戸があり、つるべで汲み上げては飲んだり、足洗い場でもあったようである。書き方の水汲みに、硯を割ったことなどもある。一、二年生は、黒田先生、佐藤工ツ先生と女先生のあとは、岩下満男先生が、四年生の担任となられた。中学年に進んだこともあって、先生の授業は活気に溢れていた。タループ学習をとり入れた学習形態であったようだし、日々張り合いがあった。男女の別なくクラス全体が足並を揃えての楽しい学習をした。そのころの授業風景のようなものが思い起こされる。岩下先生御健在とお聞きすることが出来てうれしい。

 豊肥線の隧道工事が始ったのもその頃であり、鉄道関係の転入生も沢山あった。私どものクラスには、石光久子さんなどがいた。和服に赤いメリンスの前垂れなどした女の子の中に、洋服で都会的の新風を吹きこんでいた。 久子さんは唱歌が抜群であり、「歌を忘れたカナリヤ」など、素晴しい美しい声で聞かせてくれた。それも豊肥線開通となり、二両の機関車が囁ぎながらトンネルを過ぎ、波野方面へ抜けるようになった時には、転出して四十名の元の級友許りとなった。五年生、平山先生、六年生は高木鉄臣先生であった。 この度の百年記念行事のため、中心となられて御尽力のことは有難いことである。謹厳 端正な先生であられたが、オルガンなど弾かれて、学芸会の劇の御指導など楽しかった。夏より冬のきぴしい寒さの思い出が多い。大きな木の火鉢から、ダルマストーブになったようであるが、藁草履の上履きなど、はいていた。雪山の頃、スキーをかつがれて下山される秩父の宮様を、雪まじりの寒風の中に古神の辺で、小学生一同もお迎えしたことを忘れないのは何故だろう。 冬から春へのあこがれの頃は、桜一色の、浄土寺牧の運動会があった。校庭の古木の桜も見事であったが、〕一年生を迎えての、慣例の浄土寺牧運動会はレクレーションであつた。春一番の空風の頃は、小野田牧連合運動会で、女生徒は遊戯の練習であった。ズック靴など普及していなかったので、跣で砂塵りの中で練習した。音楽の日吉先生や、猪校長先生も女先生方と一緒に練習をみて下さった。よくひぴがきれた。 先日、同級の八代工業高校の渡辺英人さんと、小学校卒業以来はじめて、電話でお話をすることが出来た。同級生の回想、望郷の心は尽きなかった。太平洋戦争勃発の頃、宮地駅より、軍服の四五人連れが同じ車に乗り合せた中に、同級の家入二郎さんがいた。お互いに小学校以来の名乗りをあげた時、二郎さんは、大切な軍刀を忘れたということで慌てて、坊中駅で引返され、そのまゝとなり後日戦死されたと聞いた。阿蘇高女進学組の荒牧義子さん、勝信子さんも若くして他界され私一人となった。英人さんのお話しでは私たち三名が抜けただけで、みんな高等科も一緒であったということである。 由緒ある坂梨校に学んだ誇と、よい先生に恵まれた師恩、級友とのふれ合いは、日と共に忘れが難く、あの古い校舎のたゝずまい、校庭の広い運動場から遮るものなく見えた阿蘇の端麗な五岳は、すがすがしく生きつづけている。                                                                              (玉名郡長洲町)

私の感想      古 本 惟 次     (大正四年小卒)

 私が生れたのは明治参拾九年七月九日、数え年七拾三才にになりますが明治大正昭和と三代に亘る実に変化の多い年代に生れて来た事を今更痛感する者であります。 然るに坂梨小学校が誕生して本年が百年との事でありますが明治四十一年当時自分達が教育を受けた旧校舎が今尚残って居り六十五年前の昔の事が偲ばれます。現在小学校時代の同級生が今尚七人程健在で居り時折り同級会をやった事も度々でありますが、我々同級生がいつ迄も健在である事を念願致す次第であります。さて明治の御代が四十五年、大正の御代が十五年で昭和の御代となり本年を以て四十八年、私が生れて七十三年を迎えたのであります。子供の頃五尺程の山の杉が今は大木となり自分達が年むとった事が偲ばれます。

現在に於ける青年のあり方を見るにつけ聞くにつけ戦前の青年時代と現在に於ける青年は天地の相違がある事を痛感するものであります。髪の毛は女を痛感するものであります。髪の毛は女の子のように肩までのばし赤いシャツを着て歩く姿を見る時男子か女子か判断のつかぬ様子。斯様を青年が是より我日本国を背負って行かねばならぬ諸君が如何に敗戦国とはいえなんとだらしのない事でありましょう。以後の世代が思いやられます。叉一方女性の方に目をむけて見ますと、若い女性がミニスカートを着て歩いているのが目につきます。 以前はスカートがつとまであつたのがいつの間にかそれがひぎまで上り最近に至りてはとうとう太ももまで上って仕舞ったのであります。昔の我々に於て想像に余りあるものがあります。 昔の人は男子にはだを見せるなと云う事を常に聞いております。何れ戦後の青年諸君又若い女性が時代の流れとは云えあまりにも戦前戦後を通じ変り果てたのを深く痛感するものであります。 すべて人の性格は姿に現われるものであり若き青年男女が一人一人の修業を身につけ立派な社会人となり我日本国を背負って行って頂く事を切望して止みません。最後に今の大学生のあり方を見てもゲバ棒を振廻し火炎びんを投げ、あの安由講堂事件其他数知れず其姿こそ大切なる教材を失い教育のあり方が根本的に間違っている事から斯くの如き人材が出来た事を深く痛感する次第。字教に制限がありますので今回は先づこれ位にして先っ三

代の御世に亘る私の長い人生を振り返り乍ら私の感想を述べさして頂きました。

  今の世は心のやにを  磨かずに  がん首ばかり 磨く世の中

  北校舎の思い出   志 賀 通 堆   (明治四三年 小卒)

 「坂梨校に新しく校舎が出来ることになったので、みんなで、その大事な土台になる栗石を採集してほしい。みんなが一っ一つ集めた栗石が、たくさん集まってそのカで、大きな校舎を支えることになるのである。」と先生に聞かされたのが、ちょう度六十余年前。今の職員室になっている当時の私達の教室でのことでした。 その頃学制の改革により四年制であった尋常小学校は六年制に改められたのでこの制度による六年制の卒業は、明治四十三年三月で現存者は七十七才の喜寿を迎えた年頃の人達と思います。

この学制改革により坂梨校も校舎の建築に追せられたとも聞きおよんでいます。当時の私達はひたすら、新しい教室で学ばれる希望で石の採集に一心だった。今と違い松山の河原は栗石ばかりだったので、昼休みの時間には石拾いに行くのが日課のようで、校門の西側の柵内に各部毎に設けられた集積場の石の山がだんだん大さくなるのが楽しみでした。みんなが競争で集め、その石には各自の氏名を書き込んだものです。 やつと私達が集めた石が登場する地搗きとなり各部落からの奉仕の勢子の人達が音頭とりのおじさんの「ぼんでん」を打振り美声をはり上げて唄う伊勢音頭の唄と、「えんざ木」の鈴の音に合せて、「コラコラヤートコセー」と威勢のよいかけ声で引く網にて、「えんざ木」は踊り・石は次々に打込まれていく地搗の行事は現今では見られない華やかな情景でした。 こうして出来た土台の上に新しい学舎がどっかとした風格を構えたものです。念願であった木む香も新しい教室に初めて席を与えられた時の嬉しかったこと。みんなで、踊って喜んだことでした。これは現在の中校舎誕生の追憶を辿ったものであります。 少年の小さい力も一心こめて結集した大さな力が土台となり六十年の歳月を少しも衰えずあの大きな中校舎を何の狂いもなく支えて今日に至っている。私達の氏名の印された石も、この下にあると思えば懐しさがまたひとしおです。この力は今後もいつまでも支え続けることでありましょう。

  大正期の思い出 小 林 勝 久 (大正十三年高卒)

 本年は坂梨校創立百年に当ります。 私は大正五年四月現在の学校に紋付袴で父に連れられて入学し、八年間を学び卒業しました。大正十一年阿蘇中部高等小学校が閉ざされて坂梨校に高等科が出来てその第一期に六年より修業したものです。 今当時をふりかえってみますと、いろんな思い出が走馬燈の如く脳裏を走りめぐります。 校内の建物は若干増改築されていますが、校内より眺めた姿は余り変っていません。 私の在学中の校長は宮川芳次郎先生が一ケ年で後は七年間牧野直先生でした。 桜馬場の桜花満開の頃の浄土寺牧登り、根千岳の紅葉真盛りの頃の秋の運動会、ひる休みを利用して毎日行なわれる軍艦遊戯という競技で運動場のすみすみまで追いつ追われつ勝負を争ったこと。又毎年実施された全校生徒による作文並に書道競技にうでを振った事など思い出は限りあ少ません。 今考えてみても五十年前の事で洋服姿など一人もなく、着物ばかりで毎日朝礼夕礼が行なわれ部落毎に組旗を立てて、組長引率のもと、登校下校したものです。 私は大正十二年十月三十日坂梨校創立五十周年の祝典があげられた時、高等科の二年生徒を代表して祝辞を読み、その祝辞も今保存しております。これは渡辺秀雄先生の作で、その中に「天朗ラカニシテ頭ヲアグレパ噴煙天二沖スル大阿蘇ノ 雄姿 月夜頭ヲ低ウスレパ萬ダノ桜ノ優美正ニ我等ノ 範ヲ垂ル鳴呼梨陽三百ノ子女豈天ニ舞イ地ニ踊りテ慶 賀セズシテ可ナランヤ」 我等同窓、先輩に共に本校の創立百周年を祝福したい ものです。

  旧師坂梨トメ先生  渡辺 文 吉    (昭和 五年 高卒))

 坂梨校に入学したのは、かぞえてみると大正十一年四月ということになる。担任は坂梨トメ先生で、宮地のおやしきの前の牛乳屋さんから歩いて通っておられた。教室は中舎階下の東の室であったのを覚えている。国語の・ハナ.の授業の時、さくらの大枝をもって来られた。 当時の女先生は、和服姿で柑色のはかまヘアースタイルは束髪(そくはつ)の優雅なものであった。何かで読んだことだが、ある作家が、「小学校の女先生は、美しくをければならぬ」といっていた。坂梨先生は文句なしの美人で、後年気ついたことだが、女優では川崎弘子がよく似ていた。(余談になるが弘子は明治洋画だんの鬼才といわれた青木繁の一粒種福田蘭童ー尺 八の名人 − の夫人である。もう四十年も続いている)

 坂梨先生には、実に四年生のなかばまでおそわった。その間に福岡に嫁して市原姓になられたが、後にも先にも女先生から受けもたれたのは、先生だけであった。国語で先生のあとをつけて読んだり範読をされる時など、読み違えられたりすることはなかった。字もまねたものだった。時々若い男先生が補欠¢授業に来ることがあったが、そんな点では、はっきり違いを感じた。今も尚あの頃のことは鮮明に残っている。こども心には下学年時代の教師の印象は深いものである。師範に入ってからも、時折友人と訪ねると、とてもよろこんで下さった。 四・五年前のことである。天草にいて、富岡の岡野屋という宿に泊った。女主人は、めしいたこれも老美女であったが、林芙美子・上林暁らの文学碑を独力で建てた傑物(けつぷつ)である。いろいろ話をしているうちに「あなた阿蘇なら、坂梨トメさんは知りませんか。」という。 私は驚いて亡くなられたことを話すと、彼女は、 「そうですか、亡くなりましたか。坂梨さんとは、師範の寄宿舎で、同室でした。亡くなりましたか。目が大きくて、きれいな人でしたが、弱そうな体質でもありました。 」 といった。天草の果てで、その夜は忘れていた先生を、久々に思い出した。

 明治十八年頃田舎小学校の授業生として 

             師 井 大 太 (明治十七年卒 隆成校教師)

 当時の授業は今の准訓導でその選抜試験は郡役所に於て行はれ合格者には一級二級三級の等級を付し俸給は普通三円乃至五円迄とし、採用辞令は郡長より発送せられたが、一郡内に十人内外の訓導しか居らなかった時代にはこの授業生も随分もてたものであった。 授業生の下に助手なるものがありその 選は戸長(今の町村長)が之を行っていた。私は明治十七年三月阿蘇郡坂梨小学校を卒業して同時にこの校の助手を拝命した。拝命時には戸長より親しく村内の事情を聞かされ、なお村教育の概況まで説かれて最後に「明日より学校の助手に採用するから、村の為に十分働いてもらいたい。俸給は少いが一円で」とのことであった。

 卒業校を卒業したまゝの幼稚なこの身を大人及いされたのが無上の光栄の如く感じられ、いわゆる士は己を知る者の為に死すてふ文字通りの覚悟を極めたのであった。勿論俸給の多寡など全く眼中にはなかった。帰って家庭に報告したら両親の喜びは又格別で、父の如きは直ちに手を清め口をすゝぎ、神前に神酒を供えて黙祷久しきにわたった。これを見た私は更に一層の感激が起って「一生涯教員としてこの身を捧げよう」との信念を深く脳裏に刻みこんだ程それ程当時は先生が有り難かったのであった。さて身は教育学の何物かさえ知らすして教うる人となったので、小心翼々、ひたすら人の子女損わざらん事をのみこれを努めて、訓導先生や同僚先輩の人々の仕事ぷりを凝視傾聴し、実際の見聞学によって日々の授業を進めたのであったが、生徒愛の至誠と職分精神の熱情とは疑って他に劣らざる成績を挙ぐることを得て、心ひそかに快哉を叫んだのであった。 明治十九年八月初めて授業生の採用試験が執行せられ応試の結果左記の辞令を頂いた。

公立坂梨小学校助手 阿蘇郡第一番学区公立坂梨小学校 二級捏業生申附侯事  但し月俸四円五十銭 明治十九年八月十一日熊本県阿蘇郡役所資格の向上と共に受持も上級の生徒(児童とは呼ばな

かった) に転じて一層努力を要する事となった.  日々の 正課は勿論一直線にぱく進し更に生徒の希望に応じて朝 読みも始め夜学も励行した。随って生徒の力はメキメキ 上達するのを認識して、再び生徒愛の至誠と職分精神の 熱情とがあれば教授法も教育学も自らその内に生れて来 るものだとの自信さえ有するに至った。  恰度その頃であった。時の文部大臣森有礼閣下が各地 方巡視の途次わざわざ坂梨校に立寄られ、各教室を視察 されて私の教室にも臨まれた。教室では、新字、語句の 摘書をして読講教授の際であったが、大臣は親しく板上 の字句を指摘して二三の生徒に質問を試みられ、生徒の 淀みなき確答を得て「ヨロシイ」と微かにうなづかれて 次の教室に向われた。 厳めしい容貌と尊い地位との持主たる大臣のこんな優しい い心持に接した私と受持生徒とは、身の光栄を相語り相 抱いて共に嬉し涙をぬぐうたのは、大臣の見送りをすま して教室に帰った時の事であつた。  翌年は新学令発布で、小学校が尋常と高等との二種に 分れ私の生徒は組合立の高等小学校に転ずるので他校生 徒に負けぬ様にと、生徒も自分も全力を傾注して努力の 日を積んだ。  然るに私は明治二十年三月第一回尋常師範学校生徒募 集に応じた結果、別れ難き生徒と、距り難き学校とを後 にして、熊本県尋常師範学校に入学せねばならぬ身とな った。翌明治二十一年二月十一日憲法発布拝賀式終了後 森文部大臣の遭難を聞き、過る日坂梨校に於いて受持生徒 と共に大臣の親しき心情に接した当時を追壊して寄宿舎 の一隅に引籠り、さん然として独り暗涙に咽んだのは私より他に知る者はなかった。      (熊本県教育史載)

     千大根食ふ山猿の子ぞ汝は               菅   第 六

 わが母校、坂梨小学校の創立百牢記念祭に当り心から お祝辞を申し上ます.過去一世紀にわたる長い年月は丁 駐日本の近代政治文化の夜明から現在の盛時に至る期間 でもあります. その間日清・日露・一次、二次世界大戦を経て今日の石 油経済戦争に突入しているわけです.明治の当初、教育 が日本近代国家建設の基本目標の一つでもあったことは 文字通り百年の大計でありました.わが坂梨小学校も亦 この基本方針にのっとつて過去歴代の諸先生、諸先輩の 方々の営々たる御指導御努力により今日の立派な坂梨校百年記念日を迎えることが出来たのだと 思います。  かえりみますと私中小学校卒業が大正十一年ですか ら、勘定して丁度創立百年の半ば頃の卒業生ということ になります。それから半世紀、私一身上についても色々 の経験を重ねて来たわけですが、世の中の変化も亦激し いものでしたね。特に第二次大戦前後の急転は年輩の方々なら誰でも御存じの通りです。では戦前戦後何れが良 かったかと云っても、それはそれで人各々過去の経験が 異るに従って、異ることは当然です。でも自分の通った 小学校の子供時代の生活は誰でも懐しく思い出されるに 違いありせせん。私自身の場合、先ず教育熱心であった 気性の激しい牧野直校長先生、音楽の竹原安喜先生、鍋島猫騒動のお話のうまかった渡辺先生、それから体操の 佐藤勝ちゃん先生、市原おしく先生等々、今だに印象深い 恩師達でありました。雪の朝の素足にぞうりの全校生 徒(二四○人)先生達の運動場駈足蛇行運動、二年続いた進学の為の早朝或は夜学勉強、プラス・ハンドと運動会、 昼休みの軍艦遊ぎ等、思い出せば切りのないことばかり です。だが今はもう牧野先生も佐藤先生も渡辺先生も居 られません。竹原先生には昨年帰省の節お訪ねしお元気 な御容姿と御声咳に接しました。坂梨の村の行事も亦然 り、旧正月の村の青年をあげての十五夜綱引、十四日の モクライトン(もぐら打)、四月桜どきの浄土寺牧運動  会での拾ひぐわちの夏みかんやキャラメル等、小野田牧 の小学校連合運動会、碧水校への競走遠征、九月の八幡 さんのお祭り、ギョウセン飴売り阿波のデク人形廻し、 オイチニの薬売り ホラ月吹きの虚無僧の水浴び寒行等 々、小学校時代の壊しい思い出は尽きそうにもありませ ん。思い出ついでに一句、  墓地を去り難し雪岳と母校見え  思い出に終始しましたが、紙数も超過しますのでこれ で打切ります.坂梨校は創立百年を越える人材排出の立 派な基礎教育校です。 四季それぞれ趣きを変える壮大な阿蘇五岳を背景にこれ からも益々立波な、良き社会人をたくさんはぐくまれん ことを心から祈ってペンを置きます。     

  (四九・二四)  この筆者より原稿を印刷に廻したあと、依頼しておいた返信が来た.それによれば昭和二十三年京都大学 より「天然ゴムの誘導体、塩酸ゴムに関する研究」で 工学博士第一二三号を授与された.この研究は戦時中 から塩化ビニールやポリスチロ−ルなどを合成した草 分けの一人である。戦中に飛行機のタンクの内張りにも使用されている。 余技に俳句をたしなむ