学制公布以前の村教育
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坂梨村教育史   渡辺 文 吉

 私は教師生活に入った頃から、熊本に出る度に古本屋を廻り、「坂梨」の文字のある本を見つけては大低あつめました。 そのうちに独歩・牧水あたりをはじめとして、多くの文人画家たちが通り、あるいは泊つていることなどを知ったのです。また村の中に起った、かれこれのことどもを探し調べているうちに、いつの間にか村の教育史に惹かれるようになりました。あんな気持を「回帰する」というのかもしれない、と思っています。父母から時折に開かされた、むかしの坂梨や学校のこと、父は明治三十年代に東京で往来した村出身の友人たちを、淡々と話していたが、今になってもっと詳しく開くべきであつたし、記録しておけばよかったと思います。三十九年の教師生活で、私は玉名南関から天草倉岳まで、郡内は南郷から阿蘇谷・波野まで、一中学八小学を巡ってきました。そして感じることは、村人が中心の小学校に心を寄せるものを持っていることは、坂梨はどこにも劣らないということです。                                                             時勢が大きく動いて、人心にかわきの見えるとき、心の寄り処をはっきり持っていることは幸せといえましょう。村の教育史については、実は四回目の執筆で、今回は同窓生を対象に書き改めました。口語調にしましたので、時に冗漫になり、歯切れのよくないところもあるように思いますが、話しかける形式にしたつもりです。 文中に多くの先輩友人の名をあげましたが慣例によって一切の敬称を省きました。 一、学制公布以前の村教育村でもっとも占い寺子屋は、天保四年(一八三三)に創設された「永井塾」で、北駄原にありました。こゝは坂梨手永の会所の所在地でした。初代の永井直方(別に俊助とも)は三十四才にして塾創立、二代を木太郎といい、肥後藩士で明治六年まで四十余年にわたり、約四百人の子弟を教育しました。教えたのは主として漢文でしたが、他に読み書きそろばんもあつたと思われます。他から移住して土着し、永い間親子二代に及んで塾を経営したのは、当時としては珍らしく、郡内でここより大きものは多くありませんでした。 永井塾の出身者の中には、後に漢文学者詩人として名のあつた園田太邑や、二十六年も坂梨村長を勤めた藤井競八らがいます。直方の墓は桜町墓地に、藤井らが中心になり門弟によって建てられました。自然石に「永井直方大人之墓」とあり、碑誌は萬葉がなで、大要次のように刻まれています。

  大人 姓は平氏 細川興昌の臣なり 文政の頃坂梨

 郷の学の師となり、明治二年八月廿八日 七十才にて

 身まかり給ひぬ その門人等三百余人 その名を永世

 に伝へんとし 相謀ってここ駄原野のおくつきに碑を

 建つ

 二代木太郎は後に創立された坂梨小学校当初の教師となったあと熊本に帰っています。

 〇証 塾の教科は漢文としましたが、内容は大学素読、論語、孟子、詩経、書経、礼記、春秋、左氏伝など、それから習字であって当時の漢文偏重のほどがうかがわれます。永井塾創設の翌年、天保五年には、その目と鼻のさきにある浄行寺に、住職の坂梨素山により、「坂梨塾」が開かれます。 この寺は慶長七年の開山で元録年間にも、その名が見えるので相当に古い歴史をもっているのです。塾の期間は明治五年までで、前者と同じく約四十年間、教えを受けた者二百六十一人。明確な数が県教育史上巻にあげられています。現住職の話では、素山から二、三代に及んで経営したらしいが当時の書類は、散逸してしまっているということです。授業内容は永井塾と大差なかったであろうと思います。素山の墓はやはり門人等の志により、同寺山門内に建てられています。碑誌は漢文ですが、次のようによめます。

  (前略)他宗の僧といへども その説を聞く講習を開き 師は夜を日につぎて精根を傾け 倦むことを知らす 門人村人らすべてその碑を慕ふ また書をよくしその門人は千人に及ばん 漢詩和歌など風雅の道にすべて長ず第三は村内馬場部落の、もと大山寺の住職大山雲平によって起された「大山塾」です。これは前の二者に比ベると短命で、雲子が寺を廃して帰農生活に入った明治二年から、わすかに五年間、三十五人の門人教でありました。教えたのも小学、論語、中庸、単語篇など。雲平自身は坂梨校創立と共に教師となりあとでは波野村内に転出しました。

  最後に、以上の三塾とかたちの異なつた「園田塾」(筆者仮りに命名) があります。おそらく名もない、ひそやかな営みであつたろうと思われます。弘化年間に村出身にして野尻手永の横目役であつた園田李光(五郎次)は、寒村に美田を開こうとして、疎水事業を起しました。幾十のトンネルを通じたのですが、測量の誤算で水はあがりませんでした。十数年のこの事業を断念した彼は故山にかえり、僅々一年程を村内子弟の教育にあてました。翌文久元年支援をうけた藩主に対し、事業に協力した人夫の苦労を思い自刃したのです。四十八才でした。 死の直前門人と共に、自家の墓地への山路をつくり「おれが死んだら、お前たちが参りやすようにナ」 ともらしたといいます。その門人の中に私の祖父がいました。墓は豆札卯の鼻の中腹にありますが、季光の跡をついだのが、甥で後の漢学者太邑です。

  以上村内に点在した四塾は、活動の期間もその間の生徒数も、まちまちであるが、設立者はそれぞれわが道を行くという覚悟、信念のもとに、経営に当ったことがうかがわれるのです。草深い村里に、細々としてはいるが四十年間ひと走りに走り続けた二代のランナーもいるし、短距離を一気に駆抜けぬけた走者もありました。「夜明け前」の時代、村の歴史を偲ぶ時一様に忘れられぬ人たち です。またその時、時において教えを受けた者にとって、その師その所はかけがえのないものに相違ないでしょう。これらのことは、やがて明治期に入り、近代と呼ばれる時期をむかえて、いち早く村に初等教育の原型が生れる基盤ともなるものです。明治政府がその当初において、地方に学校設置の奨励を行なうが、村内にもその胎動は始まっていました。 (こんな計算をしてみまし々。四塾の生徒数、四十年間に約七百人、とすれば年に二十人程が、入れかわつたとも見てよいでしょう。 いなかとしては文学を解する者が割合に、多かったのではないか、という気がするのです。もっとも寺子屋はいつでも、来る者を追つてはいないようです。坂梨枚百年間、年平均四十人弱が卒業していることになりますが、現在の児童教は学級平均三十人にしかなりません。