坂梨校創立より隆成校まで
ホーム 上へ

 二、坂梨校創立より隆成校まで

 学制公布は明治五年八月三日です。

 翌六年六月二日という日は、永井塾のあとに、坂梨枚が発祥した記念すべき日であります。(県教育史に仕八年であるが、これは誤り、他校の場合もこれがいえます。

大正年間まではその生証人が多かったのです。大正十二年に創立五十年式典を、創立当時の教師もまじえて挙げていることでも証明できます。)

 校名を「公立坂梨小学校と呼びます。公立とは政府直轄の意味をもっています。この枚名は保存教科書に捺されている校印でも明らかです。学校はその時の学区制でいえば第五大学区第十四番甲学区第十一大区に属します。位置も村の中央部なのですが、私はこの地点を十数年前に、やつと探しあてました。古井戸はまだしっかりしていました。生徒数は男三十七。寺子屋時代には一名もいなかった女児が、これから次第にふえてきます。

教師には前記の永井木太郎、大山雲平の両経験者と、野尻の人で、甲斐 太淳があります。太淳の子、直人も後に勤めました。施設こそ思いやられるが、村の学校教育の出発は、まず順風に帆をあげたといえましょう。

 九年には七名の教師となり、この中には後の村長藤井競八。がいます。生徒数もまだ少ない頃、教師は一応の教をそろえているのが分かります。(基準などまだなかったでしょう)

学校といえば私たちは、すぐに校舎、校庭を思うのですが、百年前の小学校は民家の気のきいた程度のものです。運動場など全国的には二十年代になってついたのです。)

 さて、学校は開校五年目にして明治十年をむかえましたが、早くも閉鎖の憂き目をみることになります。

 阿蘇谷では二月末日内牧に百姓一揆がおこり、三月一日から坂梨郷に打入り、九日間は荒れに荒れました。三月三日には一揆にからんで、兄が弟を殺すという事件さえ村に起りました。この騒然たる中では、もはや教育どころではありませんでした。           

 やがて熊本方面からは薩軍を誘導する協同隊の進出があり檜垣少警視の一陣が大分から進み村を通過しました。そして十八日には二重峠の遭遇戦で政府軍は敗退遠く久住にまでさがります。これから約一か月間は、村は薩軍の本拠地となり、周辺の各地に台場を構築するのです。

二十日田原坂攻略で薩軍敗れ、四月十三日いよいよ滝室坂で最後の激戦。短時間に薩軍だけでも戦死百八十名といわれています。むかしは剣のひらめきをその目で見た老人もいました。滝室から出る杉材には銑弾が入っているのもあると、子どもは話し合ったものです。薩軍本陣の大黒屋の裏の桜樹では、西巌殿寺の傑僧 厨 亮俊が惨殺されました。

 四月十五日になつて、一揆のさわぎも一応静まったかにみえますが、六月上より八月にかけて八回の不審火があり、村民は戦々兢々の日日を送らねばなりませんでした。

 

しかもまだ天災は重なって来ます。混乱は続くのです。                                              

八月二十五日台風来る。県四等属横田 棄は県令 (知事)富岡敬明宛に次の報告をしています。

 去る二十五日、坂梨へ出張仕候処、該地(坂梨)大風雨樹ヲ抜キ石を飛シ、加之其暁該駅 (坂梨) 失火、 其災二係ルモノ、並前日数回火災二係ル所ノ窮民等、 僅二仮屋ヲ新設スルノ際、コトゴトク為之吹倒サレ道途二漂泊スルモノ太ダ多ク、依之戸長ヲ始メ、巡査並二該地有志之輩四方へ奔走、俄に焚食(ふんしょく) 所ヲ設ク、窮民ヲシテ僅カニソノ患ヲ免ガレシム。其景況実二不可言事ニテ、棄儀モ一日該地へ滞在、戸長等ヲ励マシ事二周旋セシメ (中略) 該地方出火ノ儀ハ、当六月以来前後八度二及ピ、人民ノ困苦実二言フベカラズ。(中略) モシ該地火災之儀、着手上一日モ遷延二及候へバ、該駅(坂梨)灰土卜相成候ハ近キニ有リト奉存候 (下略)

 

 と、天災人災の村の状況を詳細に記しています。世情騒然たる中で、始ったばかりの学校は、ふた葉の芽ばえで摘みとられました。しかしこれは、ひとり坂梨だけに限られたことではなく、西南役に関しては県下兵乱ノ巷トナリ・・・文運ノ厄真二極レリトイフベシ (中略) 変乱前ノ景況ハ書類散逸、得テ知ルベカ

 ラザルモノ多シまた県内で兵火にかかった学校三十七、破壊されたもの六、自他の火災によるもの十一、大風に倒れたもの三十七、大破五七。すでに県内各所に七百余校が生れていたというのです。

 

しかし先人たちは、起ちあがりました。村が平静をと少もどしたのは、早くて十月頃からではありますまいか。小学校再興。それは新しい時代を呼ぷ、新規まき直しの、村の合言葉でありました。その熱意は数か月の後に実を結んでいきます。

十一年三月、字平口 (へいぐち)に堂々間口十二間の、かやぷきの新牧舎が完成しました。名も隆成学校あるいは単に隆成校と呼びます。

                                              昭和三十八年十一月に病没した、西町の後藤常信は、明治四十四年より三年間、坂梨校長であったが、甲斐勝喜訓導にこの隆成校図を描かせました。私はこの間の話を直接両人から聞いたのですが、隆成校卒業の数人を集めて記憶を辿らせ、円通寺の本堂が似ているというので、行って写生したと甲斐は.いいました。これは貴重な記録画で、かって流行した三宅克已ばりの、うまい水彩画です。写真上りこの場合絵の方が余程よろしい。六十余年前の写実技術をならもうぼやけていたでしょう。記録というものの力をつくづく考えさせられます。

                                           

 私事になりますが、私の父の長兄孫平は、隆成校設立の年の秋入学、それ以後下等初等中等高等科と八か年分十五校の卒業証書全部を残しています。それによると春秋二回の卒業式が行われていますが、今日いうところの修業の語は使用していません。明治十二年までは、下等八級上等八級に分れ、十四年よりは初等三年、中学三年、高等三年でありました。伯父はこの過渡期に在学していますが、その卒業年月日をあげてみることにします。

 

明治一二・四・一六 下学小学六級卒

     一一・五 同   五級卒

明治一三・四・二四  下学小学四級卒

     一二・一七 同  三級卒  

一四・四・三〇   同  二級

     九・一四  同  一級卒

一五・四・一四  初等科一級卒

 一一・三〇   中等科六級卒

一六・ 四・二七 同  五級卒

  一〇・二〇  同  四級卒

一七・ 五・一七 同  三級卒

     一〇・三〇 中等科 二級卒

  明治一八・四・三〇 同  一級卒

      一O・三○ 高等科 四級卒

    一九・五・三 同   三級卒

 

 このように、進級するのに八か月かかつたり、四か月半だつたり、きわめて不規則で、ある自由さがみられるようです。伯父のように七年半も小学枚に在学したのは、稀な方であって一般にはまだ教育は理解されず、政府は就学や出席の督励にヤツキになっている頃でした。 (各国では学校設立をめぐり、一揆が起った所さえあります) また当時は郡単位で試験を実施、賞状を出していた、

とありますが、伯父も県から、明治十二年六月十一日付で「小学習字帳一折 右優等ニ付き賞与ノ事」の賞状を、内牧でもらつています。彼は、高等科三級を卒業した十七才の秋、小池野小学枚助手に採用され、月給二円五十銭〈米二俵弱)を給されました。その辞令でも卒業証書でも肉筆であるが、まことにみごとな書体です。郡役所の書記にいたるまで、読み書き教育は浸透していたことがうかがわれます。

 隆成校の位置については、従来「大黒屋のうら」といわれるのみで、甚だ漠然としていました。はっきりした地点がわからないので、私は故老に尋ねるうちに、十年程前藤井マツホに伴なわれ現地に行きました。ことしの創立百周年を記念して、ここでも発祥の会所跡でも石標を建てましたので、もう惑うことはありません。これも記録のひとつです。学校跡はそのまま広い畑地になっています。ここを村人は七反畑(ひつた畑)だの七斗畑だのしまいにそれがナマツテ「した田」だの、様々に呼んでいるのです。

 ある程度の校庭をもっていて校舎は東向き路から離れて職員室は南向き、井戸がひとつありました。彼女は五つ六つの頃、兄たちも行っていたのでよく遊びに

 行きました。草紙に書いた習字を、男の子が並んで陽にほしていたのを覚えている。生徒は休みの時間には畑の土手の甘根掘りをしていました。ひるの時間には近いので兄たちは家にかえり、はじまりの太鼓がドドンと鳴ると、早々と立ち上って行ったのでしたと昔を偲び語りました。

  のどかな学校風景でした。この太鼓の胴だけはまだ 学校に残っています。

                                                                                                隆成校の最晩年−十九年九月頃、初代文部大臣森有礼が学校を訪れました。

 森有礼(ありのり) は鹿児島の出身で、青年の頃慶応元年変名して出国 ロンドン大学に学んだという傑物です。はじめは外交官として各国を目まぐるしく廻り、明治十八年の内閣制施行に際し、伊藤博文・の絶大な信頼をうけて文部大臣となりました。彼は直ちに帝国大学令、師範学校令、小学校令など次々に打ち出し、新しい時代の教育制度の整備に全力を傾けました。これは外交官出身の視野の広い彼にして、はじめてなし得ることだといわれました。これらの文教政策は、わが国の近代教育史上に忘れられぬ方向を示したものでした。

 精力的でまだ昔々しかった彼は、諸学校令をしいた後すぐに、教育の普及と実情とをみ自分の既定方針を徹底させるために、全国にわたって説き続けました。

 以前に雑誌「中央公論」は、近代日本をつくつた知識人十人の中の一人に選んだが、東大教育学の勝田教授はその死後欧化主義者とも、国体主義者とも評されたがたしかにその二つの面をもっていた。

 といっています。 熊本では師範学校と壷川校等を訪問しました。

  隆成校では教室に入って来て、授業を息子どもに質問したりしています。                

後にこの時のことを師井大太が書き残していますので、全文を同窓生の回想記−「遥かに想う』にかかげます。

 森は俊敏で果断である上に、現実的な政治家といわれるが、やる気充分の彼の一面をここに見るような気がします。開放的な彼でしたが、これから一年半の後、明治憲法発布の朝、西野文太郎にかかって暗殺されました。話題は一転しますが、隆成校の終る頃まで、数年間津留部落に、その分校ともいえるものがありました。現在もその跡は「学校屋敷」と呼ばれることがあります。生徒は村の東部の男子がほとんどで、三十人程だったといぅことです。今年九十九才の高木ヒサエはしばらくここに通ったが、男子がワルサするので途中でやめたといい                             ます。教師は甲斐太淳、直人の父子だったときき、その記憶のたしかさにおどろきました。かけもちで授業していたのです。                                                              尚、隆成校のあつた間に、豆札には園田太邑の「培達堂」が、十年の秋から開塾していますが、これは村教育の主流からすれば、はずれていると思われますので、項を改めて書くことにします。