1・水場(上町、東仲町、桜町の3ヶ所)(みずば) | ||
昔から、坂梨に住む人々は阿蘇外輪山からわき出る豊富な美味しい伏流水を生活飲料水としてその恩恵に浴してきた。 登下校中の児童や、坂梨を訪れた旅人の喉を潤すためにこの水場が造られた。 「美しい阿蘇の大いなる自然の恵み、おいしい水をどうぞ!!」 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
2・宿場通りと屋号(しゅくばどおりとやごう) | ||
豊後街道と日向・野尻往還の追分けでもある坂梨宿場は古くから交通による文化経済交流の接点として栄えた。 通りには常夜灯が並び民家の他、50軒以上の屋号を持つ旅籠屋、木賃宿、酒造業、呉服雑貨、薬屋、諸請、問屋、医者が軒を連ねていた。 通りの町名の「下町(しもまち)」、「西仲町」、「東仲町」、「上町(かみまち)」という名称は、全国の宿場町に共通する呼び名であり、そこで使われる屋号は今も残り生活の中で呼称として使われている。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
3・天神橋(てんじんばし)(めがね橋)(町指定文化財) | ||
平保木川(へぼのきがわ)にかかる単一アーチ形の石橋は、弘化2年着工、弘化4年(1847年)八代郡東陽村の石工棟梁卯助ら総勢72名があしかけ3年を経て完成。 この工事は卯助が砥用町の霊台橋(国重文)を完成させた直後の仕事である。 「卯助の心意気は誠に見上げたもので、工事の大詰め、最後の一石をはめ込む時、紋服姿で、その真下に正座した」という仕事に対する真摯さがうかがえる地元の言い伝えが残る。 橋の名称は誰も知らず、昭和58年町の文化財指定のとき、隣の天神社にちなんで天神橋と名づけた。 橋の下底の長さ6.4m、幅4.3m、アーチの中央部の高さ2.1m、約100個の石が見事な弧を描く。 石の材質は滝室坂産の阿蘇溶岩である。 平成2年7月2日坂梨を襲った大水害にも卯助が命をかけて架けたこの橋はビクともしなかった。 隣接の天神社の境内から、卯助のみごとな仕事の跡を見ることができる。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
4・坂梨会所跡(さかなしかいしょあと) | ||
坂梨手永会所(手永会所とは江戸時代細川藩独自の役所名)は12村(坂梨、北坂梨、野中、三ケ村、手野、尾籠、下原、中原、井手、宮地、塩塚、四分一)、小村67か村を管轄し石高は11,963石4斗余。 坂梨には惣庄屋が置かれ、各村に庄屋が配置された。 肥後国誌によると、11村、12,249石1斗1升5合8勺となっている。 明治維新以後会所は廃止され、建物は寺子屋、塾、小学校として使われたが、現在は会所跡の石碑と「坂梨校発祥址」の石碑がある。 写真の場所から南に入る。 (■現在、プライベートな生活の場で公開しておりません、ご了承下さい。■) |
5・地蔵尊(じぞうそん) | ||
宿場には諸国からいろんな人が流れ込んできた。 旅の途中、病やケガで倒れ、生国も名前も不明なまま逝く者も多かったのだろう。 そんな人々を宿場の人は、地蔵尊を建て手厚く弔らった。 坂梨を歩くと、辻辻で路傍の神様、仏様に出会う、表情も変化に富んでいる。江戸時代の年号がかすかに読める。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
6・天神社(てんじんしゃ) | ||
坂梨手永の天神社25社の内、坂梨宿場と周辺に15番から22番まで8社ある。 近世は氏神、学問の神として祀られているが、古代は天空(宇宙)や星を祀り季節の移り変わりを知り、農耕歳時に活かしたとされる。 写真は、枡形の街道から北へ入った東仲町の天神社、子安観音像隣り、社殿は小さい造形ながら彫刻が見事で見学者も多い。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
7・大黒屋(だいこくや) | ||
昭和初期まで坂梨宿には3軒の造酒屋があった、その内の1軒。 現在は酒類の販売店。明治10年の西南戦争時、敗走撤退する西郷隆盛率いる薩軍の一隊は4月10日雨降る中、此処を本陣として占拠した。 13日に大黒屋を撤収した薩軍は滝室峠の官軍と激戦の末敗れ、隊は二重の峠方面、日向往還で野尻方面、波野村方面へと分散して敗走、波野では途中の集落を焼き討ちしたと伝えられる。 (■現在、プライベートな生活の場で公開しておりません、ご了承下さい。■) ※マウスポイントで画像が変ります。 |
8・坂名屋(さかなや) | ||
坂梨宿往時の旅籠屋の建物として残っている。 庭園や、客室は当時のまま保存されており、今の暮らしに活かされている。 玄関内の土間には、水とツタ類観葉植物でおおわれ、室内は家具や調度品の配置や選択は家人の風流で粋な感覚が表れている。 尚、幕末期には、坂梨宿に旅人問屋(桝屋)が表れる、これは問屋を兼ねる旅人宿である、宿場が街道を結び、商品、物資の集約地として機能していたことを物語る。宿内の旅人宿は他に、山城屋、まき屋、大黒屋、畳屋、豊前屋、みなとや、が有り多くの旅人が往来し利用していた。 (■現在、プライベートな生活の場で公開しておりません、ご了承下さい。■) |
9・浄行寺(じょうぎょうじ) | ||
真宗本願寺派の末寺として、慶長7年(1602年)浄円が開基した。 本山の分派で二代目、 慶専が真宗大谷派東本願寺として現在にいたる。 藩政時代には寺子屋、塾を開き文教に努めた。 |
10・虎屋(菅家)(とらや) | ||
江戸時代は酒造業、人参の商い、岡藩(竹田市)等相手の両替商を営み財をなした。 石と漆喰の長塀と大門が街道に面して時代と風情を醸し出す。 敷地内には当時からの「なめこ壁」の土蔵2棟も建つ。 (■現在、プライベートな生活の場で公開しておりません、ご了承下さい。■) |
11・坂梨御茶屋 (さかなしおちゃや) | ||
江戸時代、豊後街道を往来した参勤交代の諸大名や諸藩の高官が休憩所としていた。 現在の建物は明治2年に改築されたものであるが往時をしのばせる雰囲気がる。 当日の大名への饗応は阿蘇路の一時を過ごすにふさわしい料理で大変気を使った。 肥後国史には「お茶屋番の市原氏の先祖は高城主坂梨右衛門惟祐」とある。 なお、市原家は加藤藩時代は大庄屋、細川藩では御惣庄屋をつとめた。 (■現在、プライベートな生活の場で公開しておりません、ご了承下さい。■) ※マウスポイントで画像が変ります。 |
12・水路、水車(すいろ、すいしゃ) | ||
場町周辺の田圃に水を引く時期以外の宿場通りの側溝には、山から湧き出た清冽な水が流れている。以前はこの水で洗濯や野菜を洗う姿が見られた。水車が回り、宿場の風情を醸し出す。 特に戦前から戦後は豊富な水を利用して滝室坂には上中下の3軒の水車による精米所があり、波野、産山、坂梨、宮地の各地からの利用が多かった。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
13・子安観音像(こやすかんのんぞう) 木喰上人作(もくじきしょうにんさく) | ||
坂梨東仲町の街道北側の天神社境内の小堂にケヤキ造り、高さ163センチ、胴回り150センチ、木喰仏独特の型破りで個性豊かな老婆が赤ん坊を抱いた立像。 木喰五行明満上人は亨保3年(1718年)、甲斐国(山梨県)生まれ、諸国を修行、日本廻国の後、寛政4年(1792年)9月坂梨宿を訪れ、虎屋の依頼により、「安産、健やかな成長、豊母乳」を祈願して彫刻。 木喰の彫刻は全国各地に散在するが県内はこれだけである。 今も乳児や子どもの健やかな成長を祈願しに多くの参拝者がお参りに訪れる。 |
14・桝形(ますがた) | ||
中世以来の宿駅を中心に発達した宿場町にはその道をわざと曲げて宿場全体が見通せないようにした場所があった。 これを桝形と称し(所により信玄曲がりとも称する)城郭の石垣を直角に巡らす設計に起因したもので、宿場の見通しを意図的に悪くする戦略的な意味があった。 坂梨宿の桝形は比較的なめらかなカーブで造られているが見通しは出来ない。 |
15・追分(おいわけ) | ||
豊後街道坂梨宿の上町から東へ延びる道。 日尾峠を越えて高森へ、箱石峠を越えて野尻(高千穂、日向方面)へ通じる日向往還(野尻往還)の起点である。 古町と称する追分けから少し入った所に往時の石垣が残る。 |
16・坂梨番所跡 (さかなしばんしょあと) | ||
豊後街道上重要な関所。 「坂梨口女改番所、阿蘇財津組ノ上番六人ノ内一人宛、下三人之ニ勤ム、女ノ出行ヲ改ム」(肥後国誌)とあり、街道を行く旅人を取り締まり、女性には特に厳しい番所で、女改部屋があり厳しい詮議がなされていた。 番所の跡を示す文字が刻まれた石材が残っており、隣の祠と水路の間に倒れて敷かれているという。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
17・十三里木(じゅうさんりぎ) | ||
豊後街道の起点、熊本城下新一丁目、札之辻から13里(約51q)の地点。 この付近を一里山とよび、大正初期まで、里程を示し、旅人に緑陰と休息を与える大榎(えのき)があった。 現在の標木(写真)は50メートル先の街道と国道の合流点にたてられている。 ロールオーバーの写真は本来の位置にある高札(説明板)。大木はケヤキ。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
18・いぼ石(いぼいし) | ||
阿蘇の神話、民話、伝説にまつわる奇石、巨石の代表八石の内の一つ。 石の表面の凹凸が手足にできる「イボ」にたとえたとか、上部の杯状穴に溜まった水をイボにつけるとイボが取れるところから「瘤石」の名がついたと言われている。 現在も「イボが取れる」との信仰が残る。 今でもいぼが取れるようにとの願いや、いぼが取れたお礼なのか、しめ飾りや、御神酒などが供えてあることがある。 |
19・滝室坂(たきむろさか) | ||
豊後街道最大の難所。西遊雑記(古河古松軒著)に「土人の方言に、大阪に坂なし、坂梨に坂有りとて、豊後より坂なしへ入るには片坂にて嶮岨の下り一里半、豊後の国は肥後の国より高き土地と云う」と高低差220メートルの坂道の厳しさを記す。 旅慣れた者でもこの坂を越えるときの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあった。 滝室坂全長3キロはすべて石畳であったと伝えれているが、いまはわずかに残すのみで往時をしのばせている。 道普請の公役として課せられた地元民と旅人の汗がしみ込んでいる。 坂の上の原野に「西南役慰霊碑」がある。 坂梨宿の大黒屋を出た西郷軍は滝室坂の上から放つ官軍の弾雨をしのぎ、応戦し苦戦、敗走する。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
20・護法社(ごほうしゃ) | ||
滝室坂の石畳を少し上った、街道正面、石段上の大きな公孫樹(幹周315センチ)の下の小さな祠。内に身高75センチの木彫乙護法(仏体)を、他に千手観音石像を祀る。 街道が賑わっていた頃、旅人に一時の安息と安全な旅を祈る場となっていたことだろう。 俗に「ごうさま」、「ごおうさま」と呼ばれ、大友氏(大分)の発した追討の手から逃れる修行僧が裏の滝から仏像を背負い身を投げたというかなしくもいたましい話が伝えられている。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
21・浄土寺(じょうどじ) | ||
阿蘇谷の外輪の麓に、杉林に囲まれ、町指定の天然記念物、大ケヤキ(樹高41m、幹囲7.5m)の下に、特異な表情の十八羅漢石仏(数えると19体ある)に守られるようにして本堂が立つ。行基作、観世音菩薩の両側に十一面観世音、千手観音があり六十年に一度開帳される。 このご開帳時以外にこの仏像を見た者は失明するとの言い伝えがある。 阿蘇西国三十三ケ所十七番札所。江戸時代には寺社参詣が流行り街道を利用し、寺参りの善男善女で大変賑わった。幽遠なこの場所を坂梨宿の屋号を持つ分限者達、美濃派俳諧粋人文人の閑雅な寄り合いの場であった。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
22・浄土寺牧(じょうどうじまき) | ||
坂梨小学校同窓会と地域の人々によって管理整備され、春の花見は小学校児童先生保護者ばかりでなく地域の人々が一同に会する行事で百年以上の伝統歴史をもって今も続いている。 さくらと紅葉の自然公園。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
23・神石(かみいし) | ||
八石の他に、地名となっている石。 畑の中にある大石は、神石と呼ばれる集落の中の、阿蘇谷を見下ろす位置にある。 その昔、信仰の対象になっていた。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
24・古閑の滝(こがのたき) | ||
冬期になると街道から見て南東の外輪に白い滝が現れる。 その下に立つと圧倒する迫力で高さ百メートルの氷柱が天に向かって延びる。 正面が女滝(100b)、左側が男滝(90b)。寒気により氷の量を増やし表情を変える。 寒気が緩むと大音響と共に落下してくるので要注意。直下へ続く遊歩道と展望台が整備されている。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
25・犬鳴坂(いぬなきざか) | ||
(地元では「いんなきざか」と称する)古閑の滝の男滝に向かって左側に外輪山の上部の草原(牧場)へ通じる急坂があり、刈乾し(牛馬の飼料)採取のため古閑の農家が利用したが、岸壁を登攀(ロッククライミング)する位のあまりにも急坂の道で、飼い主を追いかけて来た犬が、登れずに一日中鳴いていたことから名付けられた。 現在は殆ど使われていない。 坂の途中に「こうもり穴」と呼ばれた自然の洞窟がある。 |
26・箱石(はこいし) | ||
国道265号を高森町方面へ行き、根子岳を間近に見る箱石峠の中程の左手上部の草原に重箱を三つ重ねたような茶褐色の大きな石。 これも八石の一つ。この石の間に経文が入れてあり、修験行者が家内安全、牛馬安全を祈祷すると石が開き経文を取り出すことが出来たと言われている。箱石峠の所以。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
27・芥神(あくたがみ) | ||
昔、日向往還は此処より高森方面の日尾峠道と野尻方面の箱石峠道に分かれていた、いずれも難所にさしかかる。 旅の安全を祈るため祀られた。芥神は東北地方に多く見られるが阿蘇地方には大変珍しい、泌尿器関係の神としての信仰もある。 |
28・豆塚、端塚、丸山(まめづか、はしづか、まるやま) | ||
豆塚は畑の中に表れるススキに覆われた小高い古墳と思われる。 端塚は豆塚の東南約400メートルの古墳のような丘。 丸山は古閑集落の東南の台地、東側に石棺の一部らしいものが露出している。 いずれも周辺から土器等が発見されているが本格的な学術調査は成されていない。 阿蘇神社にまつわる古墳は中通地区に集中しているが、そこから離れたこの古墳?に眠るのは誰か謎である。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
29・八千場(はっせんば) | ||
高森城主伊予守と坂梨城主との古戦場と伝えられる。「阿蘇郡記」より。 |
30・馬場八幡宮(ばばはちまんぐう) | ||
應仁天皇、神功皇后、比め神、国龍神他4神を祀る。 地域の氏神様として親しまれ、毎年9月28日の秋季大祭は馬場地区の若者に担がれた御輿が宿場町を巡幸する。 平成3年の台風19号で鎮守の森は壊滅してわずかに樹齢数百年の大杉がその名残。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
31・普応山円通寺と山門(えんつうじ) | ||
禅宗、曹洞宗、高城主坂梨右衛門尉惟祐が建立。阿蘇西国三十三ケ所十六番札所。 本尊は阿弥陀如来像、十一面観音像は相当古い。約2メートル四方の極彩色の掛け軸の釈迦の涅槃像が素晴らしい。 本堂前から見る阿蘇五岳と阿蘇谷の風景は四季を通じて素晴らしい。 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
32・高城址(たかじょうし) | ||
高城には古来数説有り。阿蘇24城の1。 鎮西八郎為朝(源為朝)は阿曽忠国の娘、白縫姫を妻として、高城に住み九州の各城を攻め落とした。 城の数は数十に及び、自ら九州を追捕したため、父為義は幕府官職を解かれた。 山城である。 |
33・日本山妙法寺(にほんざんみょうほうじ) | ||
藤井日達上人(明治18〜昭和60年、坂梨生)昭和18年開山の寺、釈迦如来像、多宝如来像、日蓮上人像を安置。 上人は昭和5年インドのガンジーに会いその影響を受け、大陸各地に日本山妙法寺を創立し、不殺生、非暴力の絶対平和の布教活動に徹した。県内にも3ヶ所に仏舎利塔を建てる。 |
34・園田太邑先生、生誕地(そのだ たむらせんせい せいたんち) | ||
嘉永7年生。17歳で実学派の五楽園に学び、竹崎茶堂の日新堂に学び、やがて代教を勤。後坂梨で培達堂を開塾、県内外から多くの若者が学びに来、後の外務大臣内田康哉らを排出。 町指定史跡 ※マウスポイントで画像が変ります。 |
35・坂梨人参(さかなしにんじん) | ||
天保11年(1840年)編纂「肥後の州名所名物数望附」によると農畜産物の部で1位「肥後米」、4位に「坂梨人参」が記されており、当時は全国に有名な肥後国を代表する農産品だった。 残念ながら現在はほとんど生産されていない。 |