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小杉放庵 草の海 阿蘇をさして竹田の町を出た汽車は、のたりのたりと、大清のうねりのような起伏の高原を、いつ登 るともなく登りつつあります、ほとんど草のみを被った高原、風の吹き過ぐる毎に、草は漣(さぎなみ)の如くになびき動く、果てもなくなびき動く、大清の上の漣、まことにこれは草の海です、波野という地名の、いかばかり如実で、又いかばか り詩味あるかを思う、地名は、頼まれた学者が、むつかしい漢字などを並べたものよりも、長い年月の間に実感から適切な簡単化をされたもの、土地の人が、次第に呼び馴れ来ったものに価値があります、右には久住(くずみ)の山塊が車窓に出没する、左には祖母山( そぼさん)、あの尖った頂、引きわたした裾まで、ひしひしと木生えて、世のつねなら ぬ姿、その在り処交通の便に遠き故、人も余り登ってはいぬ由、私もまだ足を入れた事がない、このあたりから日向一円にかけて人口過剰の日本国でも、割合に人少き地方、されば草ばかりの波野、阿蘇外輪の裾野には、折々窪地に木立あり水あり、二三軒の山民の家を見るは珍らしく、天に接する草原のゆるやかな線に、放牧の馬の寂びしき姿を点じて、いと古き世に帰る心を抱かしめます。
桶の底 波野駅のあたりから、左の方の草原を突き破って出たような、恐ろしく大きな岩の鉾(ほこ)が、時々頭をさし出します、阿蘇五岳中の最も怪奇なもの、板子岳( ねこだけ)の天狗岩です、つまりこの平明無人の草原の景色が、今まさに大変化を示さんとする予告と思えばよろしかろう、汽車は次第に登り行く、登り行く、さて忽然としてトンネル、又トンネル、トンネルを出外れると、驚くべきかな路の左右は、最早彼ののたりのたりの草の海ではありません、直下に構わ るものは大いなる空間、この空間にのぞみつつ、汽車は、眩(めくるめ)くぼかりの外輪山の絶壁の突端をば、百足(むかで)の如くに歩み下る、大いなる空間の下に、桶の底のようになって、阿蘇の火口原は、展開している、中央には天を焼くばかりの黒煙、それを地神の香煙とすれば、大香炉となって、煙の下に阿蘇の五岳、各々其奇を争っています、彼の今迄経来ったのたりのたりの高原は、前代の大阿蘇の裾野で、学者は、この裾野の線をば、外輪四方から延長し来って、五岳の道上空に到って結び合せ、そこに彼の東海道の富士山よりも、或は高大なるべき、過去の大火山の輪廓をきわめ得ております。 汽車は絶壁を下り尽して、先ず宮地の駅に着くが、其絶壁の間、線路とやや並んで、妄の古道急阪 どげんをなして肥後と豊後とを繋ぐ、坂梨峠といいます、大阪に坂なし、坂なしに坂ありなどの土諺あって、行人難渋の処、近頃自動車の便、いづ方も多くなったがこの坂ばかりがそれが用いられず、汽車開通までは、交通の大きな障りであった由。 遠見が鼻 (一名大観峯) 外輪山突端の眺めは、しかしながら彼の遠見が鼻をもって最好処となす、かつて私は夏の頃、杖立(つえたて)の湯を出て、宮の原を経て、青草の裾野を登り来り、登り来って遠見が鼻の上に立った、その時の感嘆驚 異の情は忘れられません、折ふし雨もよいで、目の下の桶の底なる阿蘇の火口原に雲揺曳(ようえい)し、人里と、樹林と田島とは、雲の間々から鮮やかな色彩、貴い青地錦を布いたように隠見します、五岳の峯々にも 雲ありて、帯の如くに纏い、被領(ひれ)の如くになびき、時々に山の頭見え、山の肩見え、雲に交りて火口の 煙湧き上る、雲は生けるもののように、いや、生けるものの中の、最も活殺嬬捷(きょうしょう)なるもののように、その運動をほしいままにする為に、山と野とは元動かぬものではあるが、出、没、隠、見、の?忽(しっこつ)たる転化を受けて、山は立ち舞い、野は傾き走ります、桶の側なす外輪の断面はわが居る遠見が鼻より、左右にゆるくめぐりつつ、長く長く連って、この不思議な山野雲煙の変幻を護っている、その断面のほとんど垂直なる削立、それは一箇絶大なる、自然の演戯場の囲壁(いへき)でもあり又、火神の神殿を主とする、この小天地を、外界と限る所の大鉄城でもありましょう。 かく其日の遠見が鼻は、十二分の展望なかりし代りに、其の雲煙の運動によって、山の神秘の文章を読み得た、又の日の夕晴れに、再び私は遠見が鼻の遠見する人となる、夏空は限りなく晴れて、日は其下に傾きます、光は金に朱を交えて、横さまに阿蘇の五岳を照す、上には大なる笠の如くひろがって、彼の赤黒き怒りの噴煙がある、煙は限りなく湧き、山は静にして動かず、幾千幾万年の火と水とで、製作と破壊とをくり返された其峯々谷々、日の照る処、黄と輝き赤と燃え、緑に澄み、日の照らざる処、 紫となり黒となる、大いなる多角的立体の美しさ、凸(とつ)と凹(おう)と、縦と横との驚くべき彩色の建築です、この山下を往来すること数年に及んで、まだこのような山のお化粧を見た覚えありませんと、同行の九州の友がいいます、天然の風景は、我ままな女の如く、時ならず変貌する、美しかるべき山水、ふと打沈んで、さまでの風情なき時あり、或は一塊の丘、一本の松が、十二分の魅力を発揮する事もある、四時の推移り、お天気の加減にもよるが、折角美しくなった時も、こちらに心なければ目にも入らず、人事 の燥忙(そうぽう)の為に、山水の麗容を見のがすこと、我人ともに少くないと思われる、悲しき次第です、又物は 馴るるにつれて感受を鈍くする、常に心を研ぎ目を新たにする用意あらずば、好風景裡に住むこと久うして、やがてその好風景を忘るるに到ります、故に或は好風景は、地元の人よりもかえって旅人によって味解さるる場合少くありません、さて日は漸々(ぜんぜん)と落ちて行く、外輪山の影は、野を浸し行く洪水のごとくに、火口原を這って行く、昔は湖水であったろう処、今は四万の人と、それを養う田と畠と林、処々の炊煙、動き去る汽車、阿蘇の広野の桶の底は、次第に端から暮れかかる、其中に黒川の水が光って見える、だんだんと影は山に登り行く、さきの輝ける峯と谷とのあの極彩色は、だんだんと影に呑まれて行く、うす紫、うす青、はてはうす鼠、淡き夢となり、褪せた花となり、やがて黄昏、下なる内の牧の田圃は、螢の宵でありましょう。 南郷谷 遠見が鼻の眺めよしと云えども、下なる火口原は、北側の阿蘇谷をのみ見て、まだ南側の南郷谷には及びません、南郷谷は、遠見が鼻からは、丁度五岳のうしろに隠されている、元来この阿蘇の火口原、東西四里南北六里、四万町歩の平原は、大陥没で出来たもの、大陥没の後に、更に中央に今の五岳を吹 き出した、それ故外輪の円環に囲まれて、此の火口原は蛇の目をなしいるべきだが、五岳の一なる板子岳ばかりが、南の方日向に近き処で外輪に接して持ち上ったために、その地点だけ蛇の目が切れています、外輪の円環は又、立野の火口瀬で破れている、火口瀬には阿蘇谷の黒川と、南郷谷の白川とが合流して、能…本の沃野をさして奔逸する、南郷谷は阿蘇谷にくらべて、半分ほどの狭まさ、外輪山の形も彼しゆん の遠見が鼻付近の如く、正しく桶側の如くには見えず、やや崩れて、きびしい妓を作りつつ相連なり、 白川がこの下を、深い鋭い峡谷をなして流れます、その白川の源は白川村、杉の木立鬱蒼たる中に湧き出ている、熔岩の作った洞口を通って、山上の地下水が送り出るだけであろう、泉のほとりに社あって、白川吉見神社、泉を神と崇むる事、いにしえの椎(おさな)き心ながら、今とてレニン孫中山など半神祝されているわけ、泉の功徳莫大故、これを以て神とすることを、みだりに我々には笑えない、又このほとりに、白川井手なる用水堀があります。これは昔加藤清正の遺臣、加藤家滅亡ののちこの村に隠れて住んだ、その三代目片山嘉左衛門、白川の谷深くして、水ありながら濯漑の用足らぬを憂とし、白川水源の流れを工夫して作ったもの、これもまた一地方の小さき半神とするに当りましょう。 高森 南郷谷の行き留りは高森の町、まことに静な町、高森伊予守豊後大友の旗下として、薩摩島津の兵と、 手痛き戦いをなしたという、城山から見る南郷谷の眺めは一風情です、板子岳間近く、その姿荒ららかに雄々しく、中岳の煙なびくままに、その怒った肩と張った肱とを出没せしめている、根子岳と外輪との接合に仕切られて、高森の町は、ほんに袋の底のような処だが、道は峠を越え、トンネルをくぐって、宮崎県日向の三田井高千穂地方、五箇瀬川の流域に通じています、三田井高千穂は、天孫降臨の地として、彼の霧島山と本家争いをなしているが、その事漠然、今に於て究(きわ)むべからずとするも昔三田井地方から、他処への路は、今の如く延岡の海岸に向うよりは、山越しにこの高森へ出る方楽(ほうらく)であった為、人事の交渉従ってこの方面が重であったと聞き及ぶ、日向の天孫が阿蘇に来て国つ神の女をめとる古伝など、思い合わさるる辺もありましょうか、三田井に鬼八塚と云うがあります、おん八ぽし、或はきん 八、走建(はせたける)と云った土酋で、足力絶倫のあぶれ者、屡々天孫に楯(たて)をついたによって、御毛沼の命が討ちつ取って、三つにも四つにも切り刻んで置いたのが、一夜に接ぎあって元の如くになる、そこで首と胴手足を分けて、肥後の方へ捨てさせた、その後怨念の霜害あり、農事のわずらいたるをもって、霜の宮と祭ったと伝えてある、するとこの、阿蘇の方にも鬼八の話がある、高森の町の東南、穿戸(うげと)の山は、外輪山の突出部だが、山上岩洞多く、観音十六羅漢など安置してあります、阿蘇の大神、「おんはちぽし」を追われた時、「おんはちぽし」は岩を蹴開いて逃げた、大神もまた岩を蹴ほいで追い給う、それがうげ戸の山の岩洞となっている云々、又、阿蘇の神蛇の尾の山から的岩に弓を射る、蛇の尾山は米塚の近くにあり、的岩は赤水駅の北に今も見えます、其箭取りの役は鬼八であったから、此処にも鬼八の足の速さが示されてある、さて日ねもす弓射て、矢取りの役も退屈をしたか、果は箭を返すとて、足の指に挟んで投げた、それで腹を立たれて、追い廻されて切られたとも、天に昇ったともあり、その後早霜の害をなすにより、霜宮火焼殿の神事あるに到った、と伝えあります、走建はけだし日向と肥後との間に、島名並びなき土蛮の勇士でもあったろうか、三田井と阿蘇とで、同じような抵抗を、天孫に試みているを、おもしろく思うが、力足らずして降参をして、箭取(やと)りの役は勤めても、なお何処かに不敵の根性を残しいて、捨て鉢に命がけの侮辱を、征服者に加えた、と解し見ると、この古譚(こだん)の中にも、若干の実在性あるを認め得るかも知れません。 大火炉 坊中(ぼうちゅう)より中岳の噴火口へ登る路は急ならず、女子供も楽に行けますが、私は最初内の牧口から登った故、其曽遊の追憶によって記して見ます。 内の牧の駅で車を降りて、二人の友と、手廻りの荷を負わした人夫一人を連れて、中岳を志して上る、 三人共に宿の浴衣の裾を端折って、から脛に下駄ばき、又は草鞋がけ、菅笠をきて糸立を肩にかけます、其日まことに好い日和、六月の新緑の中を爪尖上りに物語りつつ行く、路は村里を出外れて草山にかかる、子安河原と云う処に、小さき堂ありて、紙職(かみのぼり)、花など供えてある、この頃此処に観世音の姿石現われて、信心の者急に多くなったと云う話、浅い谷間をさしのぞくと、水滴れた河床の石の間に、仰臥の人の如き形の石あり、女体とも見れば見られます、観音さんまではどんなものか、事あれかしと思う心、皆で一騒ぎ騒いで見たい心は、誰にもある人間の癖と見える、つまらぬ山師が生神になったり、石ころが仏になったり、苦から有る事、これからも有り勝ちの事と思われます、なお草山は続く、次第に草短かく木立まばらになり、米塚を右に見、やがて少し平らになり、まん中に水浅き沼、旱(ひでり)が長びけば乾くべき沼、放牧の馬どもが遊んでいます。高さ四五尺の土手、山下より山上にかけて延べているのは、この馬どもの遊行の境界であろう。 米塚(こめづか)山は面白き形の小山、富士山などにも数多くある寄生火山の類であろうが、かくの如く整った形は珍らしい、まん丸で急勾配、天鷲絨(びろうど)のような草を被って頂は草のままボコリと窪んで見えます、昔阿蘇の神の米を積んだのが彼の山となり、一つまみ摘んだあとが、彼の窪みとなったと云う、伝説の示す 昔人の空想は、蓋しはまっている、次第に登り行く、正面の頂近くから山脚の下まで、まっすぐに薙ぎ落ちたる地溝あるを、どべん山という由、どべん即ち小便、阿蘇の神の小便の跡だという、杵島岳の鞍部にかかり、鞍部を越してやや平地となる時、ここに彼の大噴煙が望まれます。木も草もない裸山の向ぅから、むらむら、むらむら、と渦巻き上って空に入って雲となり、あとから、あとからと立昇る、限りなく湧いて出る、地獄の火炉の広大さ、この恐ろしき煙を見て、何をか思いやったと云えば、私はすぐに大正十二年の震災の東京に、三日つづけて立った毒煙の大建築を連想した、頭の上の菅笠に、さらさらと乾いた音をなすは、煙の中から落ちて来る砂の雨でありましょう、これを「よな」と呼んでいる、「よな」の烈しい時、風下の阿蘇の火口原、半分ほどは草も木も人家も畠も、一色の灰色となったのを、私もかつて見たことがある、空はどんよりと重苦しく乾いて曇って、太陽も赤黒く燻べられ、限りなき細砂は空中に遍満(へんまん)する、掃いても掃いても、畳も縁側も絶えずザラザラとなっているから人の目にも口にも入る事であろう、人は何とか用心をするけれども、牛や馬は青草無しではいけず、青草を喰えば、 あわせてこの毒砂(どくさ)をも胃中に入るる故、「よな」降る時は牛馬の斃るるもの少くないと云います、田の もの畠のものにも勿論良くはないであろう、かかる難渋は何年に一度の由だが、しかしながら中岳の火口はあなどりがたき阿蘇の暴君です。 やがて奥社に近くなり、茶屋なども見ゆる頃、宮地坊中の方の登山道と行き合う、女子供など多勢続いて、にぎやかな山となります、奥社の裏手から、熔岩の上を行く、草も稀々な荒涼たる焼山、大噴煙のみが頭を圧して、いよいよ高く白日を遮ぎる、熔岩の峯を一つ越せば、其処が最奥の火口原、先刻、杵島岳(きじまだけ)を越した平地が、次の火口原、それから阿蘇平地の大火口原、つまり三重の城壁の中に、この火神の工房はできているわけ、奥の火口原の土、気味あしき黒色、日光を吸収すると見え、日は照りながら夜のように暗い中を、点々として見物の女衆子供衆が動く、それらの衣裳にのみ日照る故、異様に明るく際立って見えて、この世ならぬ眺めです、われらも其黒泥原を踏んで、やがて火口に近づく、火口はいくつもあり、既に砂の底平になったもの、湯をたたえたるもの、薄々と煙の立つもの、一ばん右手に、大噴煙の立のぼる、さしのぞく火口の縁の、今にも崩れ落ちぬべき急角度の岩壁、それには乾いた砂が、いつも水の如くに流れ落ちています、足指のむず痺ゆき深坑、何十丈の下から湧き立つ煙は、火口に余って、縄となってよれ合い、蛇となってのた打やや昇って無数の瘤をなし塊をなし、人面をなし、人面を分けて人面出で、鬼面をなし、鬼面割れて鬼面出で、ずんずんと延び高まって、天の一半にひろごる、煙を透かして、折々対岸の火口壁が望まれます、こちらよりは遥に高く、真黒に見えて、煙の動くにつれて、或はゆらゆらと落ちもかかるべく思われる、すべて甚だ畏怖すべき自然の怒りであり、地神の作業であります。
山独活 学者は我等に告げる、この山地の前身は、大分県の海から、熊本県の海へ続いた地溝水道であった筈、 そこから火を吹き熔岩を逆らして、やがて山をなした、山の大いさ富士山にも比べ得たろう、この大いなる積載を作る為に、山の下にまた大いなる空洞を生じた、そこで忽然として大陥没、彼の外輪山はその山の裾野の残れるもの、陥没の跡の火口原に、再び火と煙とを吹き出す、火は前代の宏壮な建築を再びすべく、日夜に燃え轟いて砂石を飛ばし、かくて次々に今の五岳が聾え立つに到り、五岳を環る低地に水溜りて湖となったと、この前後の工事の過程に、そもそも日を年を何万何百万数うべきか、爆音と震動と光彩と、又或時は沈黙との交替連続、人間の耐ゆべからざる威神力でありましょう、低地に湖水をなす頃より、ようやくにして我等の祖先の想像が取り付いたであろう、阿蘇の神は始めてこの山に現われたであろう、かくて伝説の創造が試みられたであろう、火口湖はその持前の浸蝕作用をもって、気長に外輪の一角を、潜入し掘穿し、やがて立野のあたりにその出口を求め得た、即ち阿蘇の神山を蹴開きて湖水を干し、人を住ましめ給うと云わるる処、最初二重峠を試みたが、具合あしくて立野の山を蹴たともあるが、水の力でも人の力でも易きに就くは同じ事でありましょう、支那で昔、萬王(うおう)の治水事業が有名だが、事実若干水利を計った分別人萬(ふんべつにんう)なるものあったとし、他の大きな水土の地質学的変化を、おおむね禹王に持って来ているのも、自然の力の擬人化に過ぎず、神話伝説の水土に関するもの、皆此の類と思われるが、山出で山没し、水淀み水走った経過を説くに、活字をもって地質学の術語を並ぶると、何々の神何々の尊の神業と語り伝うると、共に人間の心の働きで、考うる方面と、感ずる方面との両つに外ならず、それ故伝説神話に尽きざる興味ありと、私は思うものであります。 帰り路、奥社の前の茶屋で、一本の徳利をあたためさせた、山登りに酒は禁物だが、余り険しからぬ下り阪に微醺(ぴくん)を帯ぶるは悪しからず、羽下翩々(うかへんへん)の思いあります、この山実は恐ろしき山なれど、ただの日に上下するには、至って楽な散歩山、鼻唄交りで烏帽子が岳の下を通って、千里ガ浜を左にする、噴煙はかくれて早えず、なだらかな野の末に浅水見えて、放牧の牛などもい、山中の一静閑処です、戸下方面からの登山口の峠の茶屋に腰掛くれば、阿蘇西面の眺望、真下は黒川白川の合流、南郷谷の一部、ズッと向うは、山越しに熊本の平野、猪の牙のような肥後米の出る沃地、清正公の食邑(しよくゆう)、新政厚徳の薩摩隼人の旗風の頓挫した、古戦場熊本城、それらは夏霞の下にあって、はっきりとは見えわかぬけれども、もし澄明に晴れた日ならば、有明の海から雲仙岳まで、指させる苦だと云います、茶屋の背戸で、水に漬けてある二三把の山独活(うど)を見つけて、何処で採ったかと問えば、山つづき谷でと云う、これを豆腐の白あえにして、今夜の肴に妙であろうと買取り、下り阪を小走りに下ります、目の下に見えた外輪山、次第に高くなり、肥後の平野も眼界をかくれ、下り下って白川の岸、栃の木温泉、次に戸下の湯、日はまだ暮れず、一風呂浴びてもなお暮れ切らず。 |
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