深田久弥
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阿蘇山(一五九二米)

深田久弥

  

 阿蘇の規模は世男一と言われる。中学生の頃、その旧噴火口の中に町や村があり汽車が走っていると教えられたが、想像出来なかった。後にそれが陥没火口であることを知ったが、東西四里、南北六里という広さは、やはり想像では実感が来なかった。

 なるほどこれは大きい、とつくづく思ったのは、九重山の上から、祖母山の上から、眺めた時であった。阿蘇より高いそれらの山から陥没火口を覗(のぞ)きこむ事が出来た。その中央に立っている所謂阿蘇五岳も数えることが出来た。しかし私がさらに驚いたのは、そのカルデラよりも、環をなした外輪山の外側に拡がる裾野の大きさであった。それは九重や祖母の下まで来ていた。波野原(なみのはら)と呼ばれているが、波野とはうまい言葉である。

 その茫漠とした原野を一筋の道が貫いていた。熊本から竹田へ通じる古い街道で、そのところどころに松並木が残っていた。昔の旅人は皆この果てしない道をてくてく歩いて行ったのだろう。詩人墨客のたぐいは何か作らずにはおられなかっただろう。頼山陽の詩がある。

 

           

  大道平々砥(し)モ如(し)カズ

               

  熊城(ゆうじょう)東二去レバ総ベテ青蕪(せいぶ)

       

  老杉(ろうさん)路ヲ夾(はさ)ンデ他樹ナシ

  欠クルトコロ時々阿蘇ヲ見ル

 

  阿蘇の熔岩の拡がりは、鹿児島県を除く九州六県に及ぶと言われる。分離していた大昔の九州を新しい陸地に形成したのは、阿蘇の爆発の結果だという。

そういう夢のような話はともかく、現在私たちの眼に裾野と映じる部分だけでも、その広大さは富士裾野も遠く及ばない。

 もし阿蘇山の範囲にこの拡がりも含めるとしたら、それこそ日本一の大きな山になる。が普通阿蘇山と呼ぶ時には、カルデラの中の火丘群が指され。根子(ねこ)岳、高岳、中岳、杵島(きしま)岳、烏帽子(えぼし)岳の五岳である。

山名の由来について、「日本書紀」にはこう書いてある。景行天皇がこの広々とした土地へ来て、誰にも会わないので、「この国に人がいるか」と呼ばわったところ、「われら二人がおります」と、アソツ

                     

ヒコ、アソツヒメの二神が現われた。「忽( たちま)チ人ニ化シ、以テ遊ビ詣(まい)ル。」そこでアソという地名がおこったという。

 そんな謂われはともあれ、阿蘇というひびきは私にはなつかしい。少年の頃孝女白菊の歌「阿蘇の山里秋ふけて眺めさびしき夕まぐれ」を口ずさんだ時から、その名は私の心に刻まれた。中学生になって漱石の二百十日』を読んだ時にも、どこまでも続く寂しい薄(すすき)の原と、轟々と煙を吹く景色が、強く印象された。

 しかしもう圭(けい)さんと碌(ろく)さんの時代ではない。数年前の早春、麓の坊中で下車した時、駅前に騒々しく群がる観光客を見ただけで、私はあやうく登山意欲を喪失しそうになった。人を避けて私は外輪山の大観峰へ行った。おそろしく寒い日で、茫々と風に吹かれる私のほか誰もいなかった。そこから眺めた外輪山の長大な連なりには目を見張った。自然の万里の長城といったおもむきである。

 翌日、私は雑閙(ざっとう)に我慢して、観光バスで坦々とした舗装道路を登り、世界一と称するロープウェイに乗って労せずして噴火口の上縁へ到着した。見物の群集はそこまでだった。砂千里浜へ行くともう人影

                    

がなかった。私はそこから脆(もろ)い旧火山壁を攀(よ)じて中岳の上へ出た。やはり寒い日で、そこから高岳へ続く尾根は、一面霧氷で覆われていた。

霧氷の美しく輝いた最高峰高岳の頂上で、私は霧の晴れるのを待った。東の方に根子岳(猫岳)が岩山の姿で立っている。同じ阿蘇五岳の中でも、これだけは独立した恰好で、こちらのなだらかな山容と対照的に、ゴツゴツした岩稜で出来ている。

 眺めおろした南側は白川の盆地で、その先はやはり外輪山にめぐらされている。この南側を流れる白川と、北側を流れる黒川とが、末が一緒になって、外輪山の一角を突き破り、熊本の沃野へそそいでいるのである。

 下山には火口壁の続く長い道を辿った。何しろ火口が幾つもあって、地勢が複雑なので、どこをどう歩いているのかよく分らない。足許の火口の底から、その周壁から、盛んに煙を吹き上げている。かと思うと全く死んでしまった火口もある。再び私は群集の中へ帰った。


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