阿蘇山と三文豪
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阿蘇山と三文豪

阿蘇山と三文豪  ら漱石・虐花・独歩1

 

漱石の「二百十日」その一つは

夏目漱石は明治二九年から二三年まで足かけ五年間五高教授として熊本に住んだ。彼は熊本で結婚し、熊本で長女を生み、熊本で多くの排句をつくった。また熊本時代のことを取材して二つの小説を書いた。「草枕」であり、一つは「二百十日」であった。

漱石は明治三二年九月のはじめ、同僚の山川信次郎と一緒に阿蘇に登っているが、ちょうど二百十日前後のことで、暴風雨にあって難渋したようである。その思い出を基礎にしてこの小説「二百十日」はできている。この作品は明治三九年十月の中央公論に発表されたものであり、その前月に「草枕」を発表し、また「わが輩は猫である」が出て、世評をにぎわしていた時であった。 「二百十日」は圭さんと碌さんという、二人の友達が阿蘇噴火口を見物しようと山腹の旅人宿に泊る。翌朝、噴火口をめざして出発したが、途中暴風雨にあって退に迷って引き返した、というようなーものであるか、全文に漲る独得なユーモア、それに社会正義感といったものが随所に出て、人の心を捉え、一度読み出したらやめられぬおもしろい作品であり、漱石文学の初期の一特色をあらわしているものといえるだろう。

漱石記念碑(内牧)

 

暴風雨の中の阿蘇

 漱石の 「二百十日」 の主人公たちは、温泉宿で玉子の半熟さわぎや、ビールでない恵比寿のはなし、さては阿蘇言葉などでおもしろく一夜をあかすが、翌日はいよいよ阿蘇登山にかかるのであった。ところがその登山中に二百十日の暴風雨にあい、散々な目に会う。 暴風雨の中の阿蘇の情景を次のように描いている。  濛々と天地を鎖す秋雨を突き抜いて、百里の底から沸き騰る濃いものが渦を捲き、渦を捲いて幾百噸の量とも知れず立ち上がる。その幾百噸の煙りの一分子が悉く振動して爆発するかと思はるる 程の音が、遠い遠い奥の方から、濃いものと共に頭の上へ躍り上がってくる。  雨と風のなかに、毛虫の様な眉をあつめて余念もなく眺めて居た、圭さんが、非常に落付いた調子で、 「雄大だらう、君」と云った。 「全く雄大だ」と碌さんも真面目に答へた。   (略)  圭さんは、のっそりと踵をめぐらした。碌さんは黙々として尾いて行く。空にあるものは、咽りと、雨と雲である。地にあるものは青い薄と、女郎花と、所々にわびしく交る桔梗のみである。二人は煢々(けいけい)として無人の境を行く。  薄の高さは、腰を没する程に延びて、左右から幅、尺足らずの路を蔽ふて居る。身を横にしても、 草に触れずに進む訳には行かぬ。触れれば雨に濡れた灰がつく。圭さんも碌さんも、白地の浴衣に、白の股引に、足袋と脚秤を紺にして、濡れた薄をかさつかせて行く。腰から下はどぶ鼠の様に染まった。腰から上と雄も、降る雨に誘はれ着くよなを一面に浴びたから、殆ど下水へ落ち込んだと同様の始末である。   漱石はこの「二百十日」について明治三九年一〇月、高浜虚子に宛てて次のように書いている。

漱石の自作解説

「二百十日」をお読みくださって御批評くだされ難有う存じます。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。(中略)圭さんは呑気にして頑固なるもの、碌さんは陽気にして、どうでも構はないもの。面倒になると降参して仕舞うので、その降参に愛嬌があるのです。圭さんは鷹揚でしかも堅くとって自説を変じない所が面白い余裕のある逼らない慷慨家です。あんな人間をかくともっと逼った窮屈なものが出来る。又碌さんの様なものをかくともって軽薄な才子が出来る。所が二百十日のはわざとその弊を脱してしかも活動する人間の様に出来てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤であるが、ああしないと二人にあれだけの余裕ができない。出来ないと普通の小説見た様になる。最後の降参も上等な意味に於ての滑稽である。あの降参が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。……」といい、最後に、 「僕思うに圭さんは現代に必要な人間である。今の青年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の青年はドッチもない、カラ駄目だ、生意気な許りだ。」 とむすんでいる。

ところで漱石はこの二百十日の阿蘇行のとき、俳句では次のような作ができている。

漱石阿蘇の句  

戸下温泉

温泉湧く谷の底より初嵐

垂ぬべき単衣も持たず肌寒し

谷底の湯槽を出るやうそ寒み

山里や今宵秋立つ水の音

鶏頭の色づかであり温泉の流

草山に馬放ちけり秋の空

女郎花馬糞について上りけり

女郎花土橋を二つ渡りけり 

 内牧温泉

囲ひあらで湯槽に逼る狭霧かな

湯槽から四方を見るや稲の花

通水の音たのもしや女郎花

帰らんとして帰らぬ様や濡燕

雪隠の窓から見るや秋の山

北側は杉の木立や秋の山

終日や尾の上離れぬ秋の雲

蓼痩せて辛くもあらず温泉の流

 

白萩の露をこぼすや温泉の流

 草刈の藍の中より野菊かな

 白露や研ぎすましたる鎌の色

 葉鶏頭団子の串を削りけり

 秋の川真白な石を拾ひけり 

秋雨や杉の枯葉をくべる音 

秋雨や蕎麦をゆでたる湯の匂ひ

    阿蘇神社 

朝寒み白木の宮に詣でけり 

秋風や梵字を刻す五輪塔 

鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな 

   

阿蘇の山中にて道を失ひ終日あらぬ方へさまよふ 二句 

灰に濡れて立つや薄と萩の中 

行けど萩行けど薄の原廣し    

立野といふ所にて馬車宿に泊る一句 

語り出す祭文は何宵の秋 

また漱石全集を見ると、漱石は和歌を八首詠んでいるが、そのうちの二百は「阿蘇山二首」となっていて、明治三二年九月五日詠となっている。

 赤き烟黒き烟の二柱真直に立つ秋の大空

 山を劈いて奈落に落ちしはたた神の奈落出でんとたける音かも というのである。 これらを通してみると、漱石は、戸下温泉に泊り、内牧温泉に泊り、宮地の阿蘇神社に詣でてから阿蘇登山をはじめ、二百十日の暴風雨にあい、とうとう噴火口には辿りつかず道に迷って立野に出で、馬車宿に泊まったということがわかる。 

日夕阿蘇に親しんだ蘆花

「不如帰」「思出の記」「自然と人生」などで知られる徳富蘆花は本名徳富健次郎、熊本県の南端水俣で生れたが、三歳の時熊本市に移り住んだので幼少年期は熊本ですごした。その家は当時の飽託郡大江村、現在の熊本市大江四丁目一〇―三三で、そこからは日夕阿蘇を見ることができた。蘆花は「青山白雲」という本の中に「夏の山」と題するものがある。その冒頭に「阿蘇山」と題して、 吾が育ちし家は熊本市の東部、託麻の平原に立てり。門を出づれば、十里の平蕪、望盡くる所、 即ち阿蘇の連山なり。余は日夕阿蘇を仰いで長じぬ。  晴れたる日、門を出でて東に向へば、地平線と碧空の間に屏風の如く推起する阿蘇の山色、十里 を隔てて明かに眉端に落ちぬ。その赤く禿げて骨高なる稍不規則なる円錐峯の、左右に波涛の如き 連山を控へ、昂然碧空に倚って東肥の野を俯瞰し、青天に向って千秋の煙を噴く雄姿を仰ぐ毎に、 余は未だ曽てその堂々たる威勢にけおとされて真に「寿安鎮国の山」也と感ぜずんばあらぎりき。                                                       阿蘇は実に余が生活の一部なりき。春霞託麻の原に立ち渡る日、幼き子が畑の畔に董の花土筆野びるを摘み倦みて、草臥れし背伸ばす時、一里榎(熊本城より一里を表はす) の梢に綿のごとく立 ちあらはるるものは、阿蘇の煙なりき。秋老いて黒みがちなる桑の葉がさがさ晩風に鳴る頃、父上つに跟きて屋敷まはりを為すとて、夕日に明るき東の空に皓々として眼を射るものは、阿蘇の初雪な りき。冬のもなか、阿蘇の氷柱の谷雪の峯より吐き出す寒風は、飄々十里の平原を吹き通して、庭 掃く僕を「えゝまた無塩の風が」と身震ひせしめたりき。夕立の雲起るにも、元朝の旭を拝むにも、 暑きも、寒きも、向ふは即ち阿蘇の山なりき。時々は見るに慣れて阿蘇を思はず、然れども眼をあぐれば、見よ!阿蘇は常に吾れに向ひてありき。…… その蘆花が明治一二年(一八八八)の夏八月、ニー歳の時はじめて阿蘇登山をした。股引草鞋がけで、洋傘一本、麦藁帽子のいでたちであった。その登山がいかに感動的なものであったか、漢文調のきりりとひきしまった叙景は、湯の谷をこえて千里ケ浜にのぼる萱茅の坂のところでは、風にそよぐ萱茅の彼の情景が見えるようであり、その山頂の景はまた息も詰まるばかりの迫真性を以て読者をひきこんでゆく。残念なのは紙数の都合でそれをここに掲ぐることのできぬことである。 蘆花にはまた「数鹿流の瀧」という短篇小説もある。阿蘇の数鹿流の瀧の近くで囚人を使っての道普請をした時の一挿話であるが、一種無気味な鬼気を孕んで阿蘇文学の中では注目される作品である。

独歩も阿蘇を書いた

国木田独歩は麿花と同時代の、・すぐれた作家であった。生れは千葉県銚子だが、青年時代、徳富蘇峰の紹介で豊後佐伯の鶴谷学館の教師となっていたことがある。その頃、阿蘇山に登ったことがあって、その時のことを「忘れ得ぬ人々」という小説の中にとりいれている。「忘れ得ぬ人々」は三人の人物をとりあつかっているが、その一人は瀬戸内海の淋しい島かげに立っていた一人の男、もう一人は四国の三津ケ浜に一泊して汽船便を待つ時見た琵琶僧である。そして最後の一人がこの阿蘇で見た男というのである。

 独歩が阿蘇登山したのは明治27年1月であった。その時の独歩の日記を見れば、 十日朝十時熊本を出発して帰路に就く。立野に宿す。立野は阿蘇山の麓にある小駅なり。熊本を 去る八里。  十一日、阿蘇山に上る。此日坂梨に宿す。 とある。 独歩は作品の中で、この日の阿蘇の情景をつたえているが、山頂に立って、天地蓼廓、しかも足もとでは凄じい響をして白煙濠々と立騰るを見ては「壮といはんか、美といはんか、惨といはんか、僕等は黙ったまま一言も出さないで暫時石像のように立っていた。この時、天地悠々の感、人間存在の不思議の念などが心の底から湧いてくるのは自然のことだらうと思ふ……」

 としるしている。 ここで作中の登場人物の二人は、外輪山にかこまれた旧火口を見下ろしてその光景を語り、今夜は山上の小屋で泊ろうなどの詰も出るが、結局山を下りることにきめて宮地をさして下りる。日はくれかかるので大急ぎで下りた。そして村に出る。山を下りて急に夕暮のたのしい人々のにぎわいを見ると心うたれる。二人は疲れた足をひきづって宮地をさして歩いてゆくのであった。忘れえぬ人

・・・一村離れて林や畑の間を暫く行くと、日はとっぷり暮れて二人の影が明白(はっきり)と地上に印するやうになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄むで蒼味がかった水のような光を放ってゐる。二人は気がついて直ぐ頑の上を仰ぐと、 昼間は真白に立のぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃の大空を衝いているさまが、いかにも凄じくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸とその欄に倚りかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまの様々に変化するを眺めたり、聞くともなしに村落の人語の速くに聞ゆるを揃いたりしてゐた。すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が‥林などに反芻して虚空に響き渡って次第に近づいて来るのが手を取るように聞こえだした。

  暫くすると朗々(ほがらか)な澄むだ声で流して歩く馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて釆た。僕は噴煙を眺めたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待ってゐた。

 人影が見えたと思ふと「宮地やよいところじゃ阿蘇山ふもと」といふ俗謡を長く引いて丁度僕等が立っている橋の少し手前まで流して来た。その俗謡の意と悲壮な声とがどんなに僕の情を動かしたらう。二十西、五かと思はれる屈強な壮漠が手綱を牽いて僕等の方を見むきもしないで通ってゆくのを僕はぢっと睇視めてゐた。夕月の光を背にしてゐたからその横顔もはっきりとは知れなかったが、その逞しげな体躯の黒い輪廓が、今も僕の「目の底に残っている。

 僕は‥壮漢の後姿を見上げた。「忘れ得ぬ人々」の一人は則ちこの‥壮漢である。

 いかにも印象的な鮮明な表現である。阿蘇の村落の情景が月明の夜の噴煙と、‥林の中から歌をうたいながら空車をひいて現われる壮漢の姿がありありとうかぶ文章である。そしてその壮漢の歌の声までがきこえてくるよ」である。阿蘇山の文学の中に、独歩の「忘れ得ぬ人々」が加わる

と、すばらしさ。変化に富んだ山容と人々、牛、馬、草木、あらわなる岩肌、愛すべき雪に包まれ

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