中村 汀女
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春昼の噴煙裏白問を置きて

中村汀女

 久留来、大牟田を過ぎて、次は熊本に入るころになると、いつものことながら、私は落着かない。そうであるのに、わが汽車はだんだん草深い感じのふるさとの国へ進みつつあるのだった。自分を何やらなだめている間に、空ひらけて、上熊本となる。ここまで来れば何も彼もない、あたりの景色は目に入らず、ひたすら下車用意。私はもう立ちあがっているのだった。 熊本駅は先年の陛下の行幸を前に、改築されて大きく明るくなった。客もなかなか多い。どっち向いても熊本弁が聞えるその安心さはちょっと説明が出来ぬ。 駅前の通りにもスーパーマーケットが出来て、自転車、オートバイの預り所。これほどの客が入っているのかと、店内をのぞかずにおれない。これで隣近所の店も賑えば何よりだ。修学旅行の学生たちが、そこらに散らばっておれば、ここも盛り場になっていると、満足感が湧くのもふるさと。 今の熊本の盛り場は上通町、下通町、鶴屋、大洋の二つのデパートがせりあっている。ちょうど熊本

城の真下になる。西南役に焼けたままのお城が、先頃復元された。構成の美しい、雄大な石垣の上に、そびゆるお天守は見飽きない。城頭に立てば、東方真向きに阿蘇山が煙噴く。心をそそるものがある。「城愛す市民の一人樟芽立つ」とは仲間の或る婦人の句だが、私も大いに同感、市民の一人との自信の前に、たじろぐ思いもしたけれど。 その城内のよき場所に、私の昔の女学校、今の第〓向校がある。女には「よすぎる場所」といわれるのを、卒業生の会、清香会の力あって、獲得した敷地ときいたが、港刺たる肥後女性の運動会振りを、私は一昨年、まったく隔世の思いで見せてもらった。 上通町、長崎次郎書店の裏にあった旧校舎に私たちは学んだが、そこはホテル・キャッスルや郵政局と、打って変った近代的建物に変り、昔の運動場に、若木だった十何本の樟が、見上げる大樹となって残されていた。面影はわずかにこれのみ。なつかしさに私は連れだった句友と、いっしょに手をのべて                              ぬその樺を計ってみた。一抱え半。抱いた樺の幹はほっこりと温くかった。こんな春の陽ざしを十分にうけて、まだぐんぐん太る樺たちである。「もう五十年、半世紀経つのですものね」ということでお互いがなぐさめられていた。 附近にはNHKあり市役所あり、高層建築もふえつつあるが、お城がすべてを引立てている。市役所前、坪井川ぞいのお城の長塀はいつ見ても気を大きくならせる。重要文化財である。              たけいわたつのみこと さて、阿蘇を開いた神さま、健磐竜命のことを聞いたのは、いくつのときであったか。むかしむか

う1春昼の噴煙真自問を置きて

し、阿蘇の大火口一帯は、満々と水をたたえていた。みことはここと定めて、外輪の西の方を蹴破られた。いまの豊肥線立野駅のあるところで、火口、阿蘇谷、南郷谷にたたえられた水は、そこからどっと熊本平野に流れ出て、阿蘇は人住む里となったという。「その水が白川たい」と教えられた幼い日の感激の強さ。それを信ぜずにおれない外輪山の裂目であり、そこへ登山道路がつづく。 私は今度は裏阿蘇、高森方面に向った。立野からわかれて、とたんに舗装なき道に入るのだが、その岐れ道の枝垂柳は三月すでに青く濃く、ここらから水豊かである。地下水はあちこちに湧くようで、行くところ小満を馳せるまことにも春水である。阿蘇の村々の地名、白水、碧水、赤水など、たしかに火山地下水の湧出をたたえた名であろう。戸下、栃の木、垂玉などの温泉が点在し、どこもしずかな、「すれていない」好さがあるようだ。       

阿蘇霞む帰京言伝てして居れば 

 陽炎に山頭の火ぞあきらかや

春水の木蔭の濯ぎ阿蘇日和

 縦横の春田の水も火口原

 裏阿蘇と私がいっているのは、南部阿蘇、南郷谷の方である。こちらから五岳の眺めはまた変って雄大だ。噴煙見する中岳もさりながら、板子岳を私は好きである。西部劇にあるような異形の山がそそり立つ。近頃流行の岩登りの山だと聞かされたが、とにかく、道は行くほどに砂塵ならぬ白い軽いヨナ挨がもうもうと立つ。前方にトラックでも行こうものなら、私たちの車はいつまでも目隠しのままに進行する。しかしその挨をよこぎる白い蝶もあった。阿蘇はまだ寒いといわれて来たが、早やここにも菜の花が咲きそめ、うち展ける田には水が張られ、ここの田植準備はとにかく早い。 噴煙の山を真ん中にして、うちめぐる外輪山は見れば見るほど壮観である。それにこの南郷谷方面の外輪は険しい構えである。それだけにまた、この火口原の人の暮らしを堅め見守っている気がする。 九州に旅して、目につくのは「わた」の広告である。「カクイわた」「だるまわた」「おだふくわた」等々の看板は、この阿蘇の奥にも目立つ。これはたしかに化繊綿の攻勢に対抗するものであろう。そうってみれば、沿道の家の干布団は、遠目にも化繊である。ようやく行き着いた高森町は日当りいっぱいの賑かな町。バーゲンセールの派手な横幕が町を誇ってた。ここからは、九十九折の峠となり、宮崎県高千穂につづく、中腹の高森公園の千本桜は名所だが、

花には間があった。ここからの眺望は絶景で、遥か眼下にわが住む町があり、道があり、それは彼方の火の山裾につながる、気に入る誇らしい景色だと、此処に花見をたのしむ誰もが思うに相違ない。 私は外輪山の外を見たかった。この大いなる壁の向うの国原を見たかった。別府へ向う横断道路、山なみハイウェイと呼ばれている快適な道路は開通しているけれど、私は古道を選んだ。それで慾ばって、方面ちがいの波野平原の方に車を向けてもらい、とにもかくにも外輪を越えたのである − と、一口にいうのだが、その道の遠かったこと。気が遠くなるほど車を走らせてもらったのに、火口原はほんとに何分の一も行き尽したわけでない。同行の本誌記者が「仏の手のひらから逃れていなかった、孫悟空みたいですね」と苦労されたが、どこへ行ってもいよいよ大を増し、姿ととのえる中岳、高岳、杵島岳、そして板子岳はこの方面からは、寝釈迦の相を見せる。先年、まことにも寝釈迦と拝した

夕焼空に横たわったその山容を、私は思い浮べていた。 

それにしても、私はなんのために、火を噴く山よりしずかに立つ板子岳を見たかったかと、自分でもわからなかったが、やっと帰途になって思いついた。 私の国では、猫が年をとると、ねこ岳に登るといい伝えられている。もちろん猫岳と覚えていて、私の家の「コマ」「チョマ」もいなくなったのは、ちゃんと山に行ったと思われた。私の生家は、水前寺                                                               ともの湧水(これも火山地下水)が流れて出て湖水をつくるその岸にあるけれど、加藤清正の築堤という、塘に立てば、東通かに阿蘇が見える。十里ほどの還さとは近頃知ったことで、その彼方の山に猫たちは、かくれに行くと思い込んでいた。実際に見た板子岳は、やはり想像たがわぬかたちであり、どうも猫たちが好きそうだ。それをたしかめに遠くも来た私だったかと思いついたのは、恥ずかしいながらほんとうである。 母が唄ってくれた子守唄を思い出す。「ねんねこ山のねこ鳥は、一匹走ればみな走る」そのねんねこ山もこの山のような気がする。母はいつもこれだけ唄ってくれていた。一昨年、私の家に、孫の女の子が生れたとき、抱いてやりながら、いつか唄っていたのは、この子守唄で、「一匹走ればみな走る」と声に出したら、思いがけなく洞があふれて来たのだった。

  春昼の噴煙真自問を置きて 

湖に沿う江津町に、今年九十三歳になった私の母は元気でいてくれた。「私が主人だ」といって、手伝いさん相手にひとり古い家を守っている。私はここに来れば、もと通りの娘であり、若手ということになる。 私が父母の許にいた頃は、江津湖は美しかった。底まで水が澄んで、ふさふさとした藻のひまを鯉や鮒がかすめる。それをめがけて括を投げる舟々が漕ぎ寄っていた。禁漁区で、釣はよいが、その他は禁じられていたものの、駐在所さんが、よそに出かける日は、そうした捕物があっていた。私の父も鈷傷なまなましい大きな鮒をよくあか汲みに入れてもどった。湖水は昭和二十八年夏の水害、阿蘇の集中豪雨は、火山灰土の山肌をそいで奔流となり、熊本市になだれ込み、江津湖水もその余波で浅くなった。そして葦も生え台湾なぎ(ほてい草)は水の面をせばめ、釣れる魚も減ったのである。 私は子供のときから舟を漕ぐことを覚えた。さくりと水底の砂地に水樺を突きたてて、ぐつと張れば、小舟は舶を上げて軽く進む。さえぎるものない水の上のたのしさ、その砂地が泥に埋まって水梓を下ろしても、以前の快さは感じられない。しかし昔に変らぬのは、ひっきりなしにちぎれ流れ去る浮草であり、ほてい草で、これには夏か秋へ紫の花が咲く。越冬つばめがいるのもこの冬温い湧水のせいである。

 それが今度帰ったら、湖には浚渫船がいて、さかんに泥土を掘っていた。その機械の、夜昼なしのぇらい音を、母たちはあきらめて聞いていた。田どころといわれたこの農村−といってはいけない、能…本市の一部であるーの田圃に団地が出来るのである。湖水の泥をパイプで送って、水田を埋めるという。江津町の大変革である。農家の人々は一斉に団地作りの仕事に出た。湖水は見ちがえる深さになったが、景色一変、思わぬところに中島が作られ、八つ橋まがいの橋も出来、公園化がはじまっている。対岸の木立の上に、これはまた、図抜けてそびえる鉄骨を発見した。今度、市の中心地から移転する、県庁の建築だという。いわば市のはずれに高過ぎる建物だ。それならもとの場所でもよかろうにとの、

人のつぶやきに同意した私は旧弊か。 塘の根に出来た広場にも驚いたら「駐車場」という、ほんとにわがふるさとも自動車ブーム。農家にも自動車がふえていた。そしていつかふえた新住宅のなかにパーマ屋も出来、農協では、冷蔵庫からステレオ、腕時計も指輪も取次ぐという、変りに変るふるさとの開化(〜)に、私は追いつけぬ思いであった。 春暁、プオーと聞える汽車の汽笛は昔のまま。西、能…本駅に当る方で、そのかすれた汽笛は、子供の日の私に、いつも遠くに行ってはならぬぞと聞えたものだった。 老母の朝は早い。手伝いさんが仏の花を取替えていた。菜の花と、きんせん花だ。どれも菜園のもの。こでまりの花は裏に満開、庭の白樺を「肥後椿」など特にいいはじめたのはこの近年で、なるほどよく見れば、いわゆる梅芯である。奥庭の絞りの花は「やまと錦」らしいと、この頃の椿ブームに、誰もがくわしく沙汰するけれど、以前から年ごとに咲いていた花である。 椿ブームは、熊本人をそそり立てたようだ。よき台木みつけて接木するたのしみ、台木はそこらの山野の椿を掘ってくればよく、山や薮の椿はこのために荒されたといってよい。どこの家でも、幾本かの接木の椿を持っている。 午後、母にたのまれて、わずかに残る畑地を見に行く。隣地まで住宅が建ち迫る。昔なじみの丸山君と内藤君が一緒に来てくれる。ここからは出来かけの団地の家々がよく見ゆる。「同じような家ばかり出来よる。瓦の色が青赤とあるのは、あれはなァ、うちのもんはどの家とわかるばってん、他所んもんは迷うけん、色わけしてあっと」 と内藤君が指さして説明してくれた。私は帰郷の度に、この人たちと話すのが愉しみだ。江津小学校の同窓生である。内藤君の、苗床のある庭先、小屋の一隅には馬が飼われて、いつも刈りたての 青草 春はれんげ草まじりの、いかにも美味そうなまぐさが山ほどやってあったが、その小屋にももう馬はいず耕作機がおさめられている。 春の田道、畑道はよい。れんげが咲き、馬ぜりもおおばこも葉をひろげ、きんぽうげも花を輝かしていた。 たずねて見える俳句の仲間の絶え間に、私はついに誘惑に負けて、釣竿を手にした。隣の男の子、順ちゃんが、大にこにこで先導する。貸ボート屋も近年ふえた。小舟を借りて釣糸を投げ、さて浮木を見つめる幸福さ。かすかな浮木の動きに、手ごたえも感じぬままに、小さなビンタがかかって来る。ビンタの本名は何なのか、モロコであるのか。特に朱ビンタと呼ばれる虹色のもいる。 水の面に夕映が拡がってから、魚はまるでかからなくなった。こんな夕空も昔のままであったと思いながら、ふっとうしろの水を見たら、流れ寄った藻屑が、いまは私の舟から四、五米さきを漂い去っていた。母のもとで過ぎ去る時間を、それに見せられたようで私は愕然となった。 若い日に「相逢ふてへだたる堤うららかな」という句が出来た塘には、ひっきりなしに自動車が行き、ダンプも過ぎる。そうだ、順ちゃんの釣竿はリールつき、こんな音も先には聞かれなかった。塘の店屋についた有線放送は、突如、高声で見知りの名を呼ぶ。近所の人たちは、今度は湖水公園造りに働いている。たのもしく力仕事出来る人々の家に囲まれて、いよいよ齢重ねる母と、私は数日を共にしようとしているのだった。 東京への土産を買うように母からいいつかる。水前寺公園には遊覧バスがつめかけていた。通りがかりの鳥居前で、ばったり、大阪の旧知Mさん夫婦に逢い、奇遇をよろこぶ。清水湧きつぐ池に「出浮き」といって子供の頃は、春秋に連れて行かれた。べんとうは重ねの重箱で食べ、その重箱に清水を汲んで飲んだものだが、今は築山にのんびりべんとう開く人もないようだ。 土産ものを買いに寄ったデパートには、折りよく肥後椿展示会、なかなかの人出である。白鷹、七小町、長寿楽、東錦、大阿蘇、丹頂など、数えきれぬ品種の花が並べられ見事だった。会場には肥後椿の半被を着た育ての親たちが、自慢の花を守って笑顔でいた。肥後椿協会、肥後花菖蒲会、肥後菊会その他、花を愛でて住むふるさと人を、私はうらやむ。 東京への土産の菓子は、苦からの「朝鮮飴」「柿求肥」それに「松風」「五十四万石」は少々かさばるけれど、お国自慢の名がつけてあるから買うことにした。 滞在の間に榎は一斉に芽を吹いた。樺は落葉をいっぱい散らした。それは新芽が出るからである。燃え立つような珊瑚色の若葉はこれからである。昨夜は月が明るかった。


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