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「阿蘇布理」 より 高本 紫 溟 高本紫溟 名は順 字は子友という。細川候につかえて二百石、代々医を業とし、先祖は朝鮮王の庶族で李姓であった。世をいとい宮地古神の山中に庵を結び、萬松蘆という。 後熊本に出て藩学時習館の教授となった一流の国学者である。長 瀬真幸・本居宣長・高山彦九郎らと相交わり、歌 の贈答が多い。 もと原田姓で高本氏をついだのであった。文化十年に没、墓は本名寺にある。 「阿蘇布理」は古神山中の間の感懐を、歌に託したもので格調の高い作である。 その中に 滝室の滝ぞこほれる坂梨の坂のみ雪は跡たへぬらし 厳寒の滝室坂を通っていることになる。 その他に このゆふべ秋風涼し月清し ねもり流しにいざゆかむ子ら きさらぎのねの日の祭とくせなむ 鍬おろすべく畑はなりにき 小夜更けて剣ぬきもち宮つ子が 立ち舞ふ袖に秋の霜おく あまさかるひなにはあれどつつじ咲く 尾の上を見れば都しおもほゆ 昭和十七年北外輪山中で果てた歌人宗不早は、歌集 の巻頭に 一本を高本先生の英霊ににささぐ。著者壮年にして無頼 の徒なり。おくれて学に志し、今日いささか心境開拓の 道程にあるを得るは、ひとえに先生遺風の垂訓によるも のなり。 阿蘇白雲みんなみの春たけにけり わが思ふ人の世の人ならず |
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