高群 逸枝
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巡礼行
 「私の生活と芸術」より
         高群 逸枝

 逸枝は明治二十七年熊本市の生れ、父は小学校長で下益城郡守富から、熊本女子師範に入ったが校風になじめず退学された。後年彼女ほ「私自身にも、かなり偏したものがあり、師範生として不適当であったことはたしかだろう」 といっている。
そして熊本女学校−後の大江高女に転じた。昨年八月満百才を越えて亡くなつた福田令寿に、直接四年生への編入試験をうけさせてもらった。卒業
後ほ製糸女工となり、二十才で代用教員、大正七年六月二十四才の時、 国遍路の旅にのぽった。
この半年にわたる旅を「娘巡礼記」 と題して、九州日々新聞に送ったが、まだ原稿紙を埋める技術を知らなかった、といっている。後には東京に在って詩人として出発、その後女性史家として活躍したが昭和三十九年役。著には詩集「日月の上に」「恋愛論」 「招婿婚の研究」主著の 「日本女性社会史」など。没後全集が刊行され、近年その業績  は高く評価されている。次はその回想記のかたち  をとっているものである。坂梨のことは「今昔の歌」「火の国の女の歴史」の中に書かれている。  一九一八年 (大正七年) 六月四日、熊本市京町 専念寺を立って、旅にのぼった。
 道の千里をつくし、漂白の野に息わはや。遠山は日に滅し、水の源は曲がりて定かならず。すべての地ゆき空ゆくものに、そのおのおのの占里を問わば、いずれか忘却のかなななりと答えざるベし‥
 六 月 六 日
 きょうも阿蘇谷を歩いてゆく。仰げば頭上に雨雲をぬいて五岳が高くそびえている。この日の阿蘇五岳のすがたは、私の心に一種異様な印象を刻んでいる。中岳の噴煙はあわく這っていて、白絹の帯が山の肩からたれさがっているように見える。これが奮い起って天に沖すると肥後一円の住民はあれよとばかりおどろきさわぐのであるが、きょうはいかにもおとなしい。坂梨の近くで小学
生と道づれになった。 「お遍路さん、さよな」 といいながら、一人二人と欠けて行って、最後に残った子としばらく歩いた。その子が別れるとき、 「お遍路さんな、どけ泊まっとかいた」ときく。まだわからないが、どこかに泊れるだろうと私がいうと、お辞儀をして行きかけたが、またしばらく立ちどまって、不安そうに見送ってくれた。 坂梨の町をすぎると、道は急に爪先あがりになり、日はとっぷヵ暮れた。牛をつれて野から帰る人が、後からやってきて、私に声をかけてくれ 「ふう、そらきのどくなこつな。あすこんお寺、ほら見ゆっだろがい。あん森の中たい。あすけ行きなはり、おるが教えたてちゆうがええ、おるも後かる行くたい といってくれた。 そこは街道から、畑道づたいのお寺だった。高いところに鐘楼があった。浄土寺という禅寺で、坂本元令さんという若い住職がいたが知性をたたえたしずかな人柄で、私はここで安らかな二、三日の休養をとることができた。 そのとき私は囲炉裡ばたで抱いてあやした二才の秀子さんが、終戦後NHK「朝の訪問での私の放送をきいたといって手紙をくれたが、「父母がよくあなたの話をしていた」などと書いてあってなつかしかつた。 坂梨を出ると火口壁の内側はここで尽きて、外側はきわめて緩傾斜の裾野を引いて、波浪状の高原をなしている。そこには波野原という一眸千里の草原がある…。


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