北尾鐐之助
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根子岳

雨の火ノ尾峠 北尾鐐之助

 ……さん、私はまた阿蘇に来ました。

 周囲四十里という火孔原の中で、宮地の町と火孔峰の山を隔てて、南北に相対した肥後の高森。その町の旅舎(やど)の二階から、盆の仏迎いの灯(ひ)に美しく飾られた町並を、ひとり寂しく眺めています。 阿蘇の五峰中、一番高い高岳。その山登りを雨のため失敗して、日向路に向おうと今ここまで下って来たのでした。

 雨は漸く歓(や)んだが、空は星の影一ツありません。 宮地から南へ、高岳と板子岳との間を通ずる火尾峠の道は、恰度この高森まで四里の国道。高森からずっと南へは、日向の馬見原越に、延岡の方へ出て行く道に続いて、山の中とは思われぬほどの広い道路がついています。

 私は明日その道を辿ろうと思っているのです。

 

 今朝は宮地の町を九時半に立ちました。頭の上は晴れていたが、山は霧が深く、その霧の幕(とばり)を突き破って、噴煙が明るい中空にむくむくと奔騰していました。

 私は今度という今度、始めて阿蘇の噴煙の凄じいのを見て驚嘆した。全くあのど(ヽ)す(ヽ)黒い噴煙の姿は、偉大な夏の積層雲に似て、それとは一種異る怖ろしい威圧をもっています。浮んだ姿でなくて、ものを突破らねばやまぬ姿です。むくむくと小止みなく立ち立つ、激しいその流動の力。煙の分子が一ツーツぎらぎらと空気に閃き昇って、永劫の雄叫びが宇宙を貫いてほとばしっています。

 宮地からの道は、鉄道線路を踏み切ると、古神にある阿蘇家の墓所。その傍らから路は左に入って、火山原を流れる雨水のため、自然に薬研(やげん)のように崩(く)え込んだ黒土の上を歩きますが、両側は高い土手を作って、頭の上は冠(かぶ)さるほどな一杯の萱(かや)でした。

 ちょいちょい流れを飛びます。銀鼠色をした新しい 『ヨナ』が、一すじ帯をなしていたりからからの噴出岩が、黒土の中から頭を出していたりしました。

 こんな道を暫く行くと、朝早くから峠の七八合目までも登って、午前中はそこで萱切りをした農家の馬が、背(せな)一杯に萱を積んで、数限りなく続いて下りて来るのに出逢いました。

『よか草、たんと伐(き)れました』と、案内の爺さんが挨拶すると、『はい、はい』と馬を追いながら下って行きます。そういう馬連は、大概みな可愛い仔馬を連れていました。仔馬は私達の異様な姿を見ると、やさしい目をきょときょとさせては立止りました。親鳥と一緒に道草(みちぐさ)でも食っていると『こうら、とっとと行かぬかや、ぐずぐずしくさると、馬車馬に売り飛ばして仕舞うぞ』と女馬子から叱られ『エッ、そればかりは』と云ったように、首(こうべ)を振上げ、お尻を振りながら、急ぎ足に下りて行きます。

 馬の群(むれ)は幾十頭、幾百頭となく続きました。それがみな掩いかぶさるほどの萱を背負っています。あれ丈けの萱を切っても、山は見渡す限りなお蒼青(まつさお)でした。阪梨村の方へ行く道に出逢う辺りへ来ると、大分登って、目路も開闊になりました。この辺りは平常(へいぜい)あんな放牧の馬が沢山いるのだそうですが、一卜月ほど前から山が荒れて、大変な『ヨナ』のために、ああして萱を切って帰り、それを洗って飼うのだそうです。

 この辺から、山向うの南郷谷一帯。阿蘇の山麓には至る処放牧の馬が見られました。『女を可愛がると馬が瘠せる』。この辺にはそういう諺があるといいます。馬を飼うのは女の仕事で、このあたりの女は大概二頭か三頭位い、みな可愛いいこの生物(いきもの)を育てていました。

 空が少し晴れて、当面にこの朝初めての根子岳と顔を合せました。相変らず奇怪な線を描いて、私の神経をおののかせずには置きません。これから登ろうとする火尾峠が、この板子岳と高岳との鞍部を作り、ずっと低く連亘して、霧の閏から見えて来ます。それも見えたかと思うと、すぐにまた冷たい霧雨です。

 根子岳は、その音読から猫岳−にも作られていました。そして、こういう神秘な山に有勝(ありがち)な怪猫の風説などが、麓の村々の子供達をおびえさせていました。麓のある農家で、つい三四年前、怪猫のため生れたばかりの嬰児を攫われたという話さえ伝って居ります。それは日尾村で聞くと、事実は事実だけれど、村の某家に古く飼っていた猫で、この猫は直ちに打ち殺されたというような話をしていました。

 火尾峠のすぐ真下、噴火峰の北側に巣を作ったその日尾村。そこは僅か十七八戸の寒村で、火山灰の土を耕して、少しばかりの唐黍や、甘藷などを作っています。家も人も大噴火山の『ヨナ』を冠り、毒煙に包まれながら、そういう療地にも人が住んでいました。阿蘇氏が、この山越えに領地へ入り込む諸人改めのため、特に関所のようにして、ここへ藩士の一部を住わせたという、その武士(さむらい)の子等が、先祖から伝承した故郷に対する遣瀬(やるせ)ない執着!。それが今、この小さい火の山中の村を形作っているのです。

 峠の下の茶店に休んで、その茶店の主人の祖先というのは、阿蘇家の藩士として、有名な家柄であるというような詰も聞きました。昼飯の膳に載った、瘠せた馬鈴薯の一片にもこの人達の土地に対する執着の寂しい影がありました。

 宮地からこの峠の茶屋まで、ゆるゆる写真などを撮りながら登って約二時間、ここからは雲さえなければ、板子岳はよく見えました。 私は、この茶店で峠の上から高岳へは勿論、昔から山麓では人跡未到、神秘の山とされている根子岳へも、相当な勇気さえあれば、行けぬことはないということを聞いて、頻りに食指が動きました。

 板子岳は高岳に比較すると、百二十米(メートル)ばかり低いのですが、その鋸歯の如く乱立した頂上は、現今盛んに噴煙を揚げている火孔のある処とは、三百米(メートル)ばかり高くなっていました。そして、この火尾峠の頂上は、火孔よりまた三百米(メートル)ばかり低いところを、ずっと北から南へ越すのです。 板子岳へ登るには、旧八月になって草の短かくなる時を志すか、秋、草が枯れると、薪を採るため、麓から火をつけて草を焼くが、この時に登るがよい。そして、粉岩の崩落するところを避けて、多く草場を横に揚みながら、岩崩れにかからないように道を取るので、少し馴れた者でないと困難だが、決して登れぬ山ではないというのでした。併し、今のところ、日尾村で頼む以外、適当な案内者を求める訳には行きません。 こんな話を聞いている中に、また雨です。いつまで待っても晴れぬため、今度の旅は、志して来た高岳登りも断念せねばなりませんでした。

 宮地から連れて登った案内の爺さんは、随分この辺の山を歩いたと云いながら、峠から高岳へ行く道は全く知らぬと云っていました。・・・・・道というものはありませんが−−−それほど阿蘇の山々は、世間から超越しています。私は毎年信飛の山々に行って、今度、ここへ来ると、人々の山に関する冷淡さが、全く憎らしくなる程でした。 日の尾の茶店に彼是一時間。天気は到底駄目と走(きま)ったので、高岳を断念し、そこから峠の上に辿り、南麓の高森へ下ることにしました。

 茶店から又彼是一時間。その辺りはやや登りが急ですが、応えるほどのものではなく、どこが峠だということもなくして、幾つかの波状丘をなした、この鞍部の丘を越えます。そして、最終の、愈よこれから下りになるという処で、私は案内の爺さんと別れました。峠の上までと約束をしたのが、先きから幾つも峠を越しながら、正直な爺さんは、ここを峠の毒絶頂だと心得ているのです。併し、そこは成程高岳、根子岳を見るのには一番よい処でした。

 

 北から登って、ここで始めて私は阿蘇の南麓を見ました。南郷谷の白水、一色、草部(くさかべ)の一帯。遠く高森の甍が、降り落されたように煙雨の中に見えます。暫く峠の上に立って、もしや高岳が晴れるようなことはと見ていましたが、細雨はしとしとと帽を打って、峰は一帯に黒い雲がしぶとく漲ってた。時々にかっとして、右の肩に当る断峭が、恰度影絵の如く薄紫に現れて来ますが、じきに塗り消されて終います。 この辺から、谷を隔てて見る高岳の山容は、可なり立派で、上から包まれた萱の緑の渡さ、山の敏を作って処々黒ずんだ処は、この辺で、ノリウツギと呼んでいる『クロウツギ』『ヤナギ』などが密生しています。萱と云えぱ、全く阿蘇は夏になると、この宿根草の青石(いろ)に彩られるのです。処々可愛いい山萩が点々と彩る外に、全くそれは何の木も見ることが出来ません。

霧の中を頬白鳥(ほほじろ)が飛びます。山燕がひらりと身を翻します。振返る根子岳の方は、雲のため全く何も見られません。

 それから、雨の中を一散に峠を南へ下りたのですが、漸く火孔原に出て、杉の森のある辺りまで来た時、柿然たる急雨に出会って、草場には雨装束をする木蔭というものがなく全く泣きたいような惨めさを味いました。雨は放牧の牛の背を分けてたぎり落ち、牛は心地よさそうに、泣きれて行く人間を見送りました。

 それでも、途中から日の光りを受けて、高森町へは四時頃に入りました。

 高森は阿蘇の南麓では有数な賑やかな町です。ほんの街村(がいそん)の発達した町ですけれど、近来の好景気で、町中はどこを歩いても絃歌の響が聞えています。

 今夜は新盆(にいぼん)の十五日。夜散歩に出ると、町の人々は大勢飾提灯や、水瓶などを手に提げて、町端れを野原の方へ続いて行くのです。私も思わずついて行くと、とある森の中は一杯に絵模様の提灯で彩られ、中には一寸とした喪章張なども出来て、みなそこでひそひそと慎しやかな盃を上げています。気がつくとそれは広い墓地でした。 新しい墓には、殊に沢山の提灯が点いて、天蓋の椅羅びやかなのは、色提灯の光りが栄えていました。

人々はその新らしい卒塔婆や、白張提灯を取囲んで、地下に眠る人を呼び醸させた心持で、墓前には酒を供え、また飯などを供えました。 私は、旅空の寂しい心持になって、しとしとと降る雨の中を歩きました。墓場の森は、暗い火孔原の夜に一処(ーこころ)ずつ明々と輝いていました。

                                (大正八・八・一〇)


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