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阿蘇の野宿 畦地 梅太郎
火口の底から、もみ合いへし合い白い煙りが噴き出て、上空の強い風にあふられては、向こうの方へ流れていた。地べたへちゃんと足を踏んまえて、わたしは身体がふっ飛ばされるのを、ぐつと我慢して立ちはだかっていたものだ。 肩にかけたズックの小さな雑のうが、風にあふられるのに気をとられているまに、片手にひろげてもっていた陸測の地図を、あっというまにふっ飛ばしてしまった。いったん地図は火口の中へ舞い下りて、ひらひら飛んでいたが、再び舞い上り白い煙の中に吸い込まれてしまった。 これは、ずうっとずうっと以前のこと、元日を阿蘇の山の上で迎えようと目ろんで出かけたのである紙質がよかったのである。五万分の一の地図が十三銭、色刷りの二十万分の一が二十五銭、金の価値には変わりがないのだろうがそれにしても、昔の地図は安かったものである。地図がなくては登れんという阿蘇山では勿論ないが、地図と実際を見くらべて、山の所在を見きわめたい考えで地図を持っていたのであった。 一緒のバスで登った人々は、暮れの三十一日だというのに、殆ど満員であった。地元の人ではなさそうである。リュックを持って山靴はいたりしているのはわたし一人、みんなの目が、わたしに集まっているようにも思えて気色がわるかった。バスの終点で下りたみんなは、建ち並ぶ土産物屋もお休み所も素通りして、踏みならされて熔岩も砂地も道のようになっていた。普通の靴、ハイヒール、下駄のはきものの人らは、歩きにくそうだった。 登りきったところが火口べり、その人らは火口べりに立ったとたん、あまりに強い風に面くらったのか、洋服の女の人ら、和服の女の人ら、裾の乱れに気をとられるようにして、男の人らとあわててもときた熔岩の道を下って行った。登ってきたバスの車掌さんから、下りの時間を知らされていたので、乗りおくれては大変だと気もせいていたのだろう。その日には下るまいと腹にきめていたものだから、わたし一人、北へ向かって火口のへりを半分近く歩いたところで、強い風に出くわしたのであった。広場とも道路ともつかぬ休み所や土産物屋の建ち並ぶバスの終点、広場をはさんで反対側には、神社と御堂のようなものが建っていた。昔の名残りであろうか。すでに多ぜいの人を乗せたバスは下っていた。あっちのお休み所、こっちの土産物屋の店員、若い娘さんらが、わたし一人を目当てにして、呼びこみの声を張り上げていた。 頂上の火口べりへ登るとき、重たいリュックを預けた店があった。お義理にもわたしはその店へはいるのが当たり前のことと考えたりして、その店へはいった。そこで、早目の晩飯ともつかぬものを食う始末になった。ちゃんと万一の時を考えて野宿する道具の一式を背負っていたので、泊まり宿のことは気楽なものであった。バスの終点をとり巻くあたりには、宿泊の設備はなかったのである。暖さを誇る南国の九州でも、十二月の末の山の上は、日が暮れかかると急に冷えこみがひどかった。 天幕を張る場所をさがしに少しバス道を下った。なるべく人目につかぬ場所をさがしたが、そのへんの地勢が革も樹木もない丸坊主、さえぎるものもないありさまであった。ふりかえって見ると、バスの終点の建物あたり、まる見えであった。 土盛りした土手の囲いの中に、ながい風雨にさらされ火山の灰をかぶり、すっかり苔むした五輪の塔の形の墓石が五つ六つひっそりと建ち並んでいた。大昔、山の上が栄えた当時は神や仏へ奉仕する坊さんらは、この山の上に暮らしていたという。その偉い坊さんらのお墓だ。土底深く永遠に眠る坊さんらも、明け暮れ、山のてっぺんから立ちのぼる白いっそり閑としていて、人の気配はしなかった。大雨がふれば川筋になるのだろう、水の無い流れの一と筋の窪地を見つけた。坊さんの墓所には近いが、土産物屋あたりからも窪地は見えない場所であった。わたしはその場所へ天幕を張った。いいことには、天幕を張ったま上の台地に、水揚用の手押のポンプが取りつけてあったことである。おそい食い物の支度をするアルコールの熱と、ローソクをともす炎の熱で、せまい天幕の中は、結構暖かかった。夜おそくなって、ガラガラ車輪の音がした。天幕の方へ向かってくるらしい。天幕の近くで止まった。そのままもとの静けさが続いた。耳をすましてながいことようすをうかがった。突然、ガッチャンガッチャンの手押ポンプの音と水の音がして、わたしは、やれやれとほっとした。 上の建物の人が昼間便う水を汲みにきたのであった。水汲みにきて見れば、寒いというのに窪地に天幕をはっているやつがおる。怪しいやつと思ったかどうかはわからんが、その人も、ながいこと様子をうかがっていたのであったのだろう。道ばたに天幕を張っておって、朝になると小学校の生徒にすっかり怪しまれ、石を投げられたり、四国の山の中の村はずれでは遍路乞食とまちがわれたりしたことが度たびあったので、そうしたことにはなれているのだけれど、まことに気色がわるくてたまらなんだ。火の山の地べたの寝床だけれど、夜が更けてくると、大地の底冷えはますますひどかった。野宿の道具は支度していたとはいうもののキャンバスの敷物、毛布一枚であった。こん日のように行きとどいた道具は持っていなかったし、また道具屋にだって完全な道具は、使う人の注文なら整えたものだろうが、売ってはいなかった。わたしは有り合わせの物を山歩きの道具に工夫したものであった。元日の朝日の登るのを眺める目的が、天幕の中で寒さにふるえ、ちぢこまっているまに天幕の外は、もうすっかり夜が明けていた。自分の家の元日でも、ろくすっぽお正月らしいこともできんありさまのころだから、山の上の元日の朝は、なに一つ正月らしい支度がなくても、気兼ねする人もない。前の日に登った山頂の火口べりへ再び登る気持もなくなって、つめたい毛布を身体へ巻きつけたま美幕の中でうつらうつらして時をすごした。天幕を出て見ると、元日のその日は風もなく晴れ渡っていた。山1の白い煙はむくむくと澄みきった大空へ噴き出していた。まだ、壷バスも登ってこない。休み所主産物屋も、一番バスで登ってくるは山腹の草地をえぐって出来た樋のような道、そのうえ火山灰である。ゆっくり下るどころではない。 せまい道の底を下れば、足がもつれてもんどりうってひっくり返る。樋の道の両側の土手を、ひょいひょいと飛ぶようにして走り下った。登るときはバス、↑るときはそんなあんばいだったから、阿蘇のあたりの景色をゆっくりも眺められなんだ。道がゆるくなって足元が楽になったら、その辺は杉の植林地帯で、見通しがきかなかった。白い噴煙が見上げられたのは人家のあるあたりへ下りついてからであった。そこから眺める阿蘇は、右からゆるい起伏で山肌がのび、その間に白い噴煙が見え、左へ急角度に岩肌がけずりとられたあんばいの眺めであった。わたしは、阿蘇の山の典型的な眺めより、そうした形の崩れた眺めを見付けて喜んだ。バスももちろん、山上へ走っているが、こん日ではケーブルが架設、ホテルなどもできていることであり、もう昔のありさまはすっかり消えていることにちがいない。
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