5 草部吉見神と・その娘阿蘇都媛
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 5 草部吉見神と・その娘阿蘇都媛 

草部吉見神(彦八井命・国龍神)と健磐龍命の父、神八井耳命は兄弟で吉見神は兄にあたります。

吉見神は神武天皇の命令で治保郷(ちほごう)を治めることになりました。

(阿蘇郡内にはその頃、治保郷の外 波良 衣尻 阿曾 等の郷があり、一の宮町は阿曾郷に属していたと思われます。)まず、吉見神は草部の村々にあらわれる大蛇を、退治することにしました。大蛇は大きな池(吉ノ池) に住んでいて、夜になると作物を荒らしたり人を傷つけたりしたのです。時には家をこわしてしまうこともあって、人々は、安心して休むこともできません。 勇気のある吉見神は、格闘の末その大蛇を退治しました。

 傷を負った大蛇が逃げ回った跡を血引原 大蛇のなきがらを焼いてその灰が残った

といわれる場所が灰原だといい伝えられているのです。草部という地名は、吉見神の住まいが、草を束ねて壁を作ったと言うことから付けられたともいいます0その噴は、まだ丘や山の斜面に穴を掘って人が住む横穴式の住居が多かったようですから、草で囲った家の形式の始まりだったのかも知れません。

草部吉見神社の杜記によると(国龍神は神八井耳命の兄) (草やねの館をつくったことから草部)とあります。一方、健磐龍命は九州中部を治めるため山城の国宇治から海を渡り、日向の国(宮崎県)を経て、九州の真ん中である阿蘇地方に向かわれました。

 まず、宮崎県延岡の方から五ヶ瀬川をさかのばって御嶽山のふもとにしばらく居を 定めました。それが、御岳村の起こりだといいます。成君 稲生原 逆椿 塔の原村雨坂 田暮坂等は命が村々を廻られたときの、ゆかりの地として付けられた名前だといいます。

 また、馬見原には弊立宮を建てられ天っ神、囲っ神をまつられたといいます。 御岳から健磐龍命は、伯父 吉見神の住まわれる草部にやってこられました。

 そこで、吉見神の娘である阿蘇都媛に出会われたのです。健磐龍命は媛と仲良くなり、妻として迎えることになりました。 阿蘇外輪の北東部に当たる産山には、健磐龍命の御嫡孫誕生に由来する地名が今も残っています。              

 御湯船(おゆぶね)、柄杓田(ひしゃくだ)、平川、などの地名も、御嫡孫(ちゃくそん)誕生ゆかりの地名だと伝えられて

おり、産湯をつかった時の、湯船、いらなくなった柄杓を投げられたことから柄杓田、

産湯をわかした平釜がなまって、平川になったといいます。

 産山は、宇夫山 生産山などと書かれたこともあって、「うぶのやま」といわれていました。

                            

註 嫡孫は健磐聾叩の良男の、その良男を指すので 十忘宮・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)の御子ということになるが、阿蘇の神話・または言い伝え等が、その地に伝わって行く問に、他の場所での伝わり方とちがった形となったこともあり、健磐龍命の御子という考

 え方もでてくるようです。

       平川阿蘇神社

 産山村山鹿にある。祭神健磐田命・比嘩神「阿蘇大神の郷嫡孫御降誕のとき産湯をわかせる平がまをまっったことから平川とよばれるようになった」とされる。

    乙 宮 神 社

 産山村産山にある。祭神若比噂神・健磐田命「若比噂神御降誕の地」であり、産山という地名もここから起こった、とされている。 若比嘩神は阿蘇宮六宮


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