9 「阿蘇奇瑞記」
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9 「阿蘇奇瑞記」

 阿蘇山西巌殿寺には「阿蘇奇瑞記」という絵図が残っており、阿蘇の火山活動の様子を絵に表し、奇瑞(よいしるし)とされる噴火のようすが描かれています。

 阿蘇の火山活動の様子は、太宰府を経て朝廷に知らされていました。昔の人は、火口にある神霊池の水の色や煙の色、その出方、勢い等の変化の仕方を 見て、吉凶を占ったものと考えられています。火山の不思議さについては、こんなに科学が進んできた現在でもまだ、わかっていないことが、たくさんあるのです。昔の人達が火山を神の霊の宿るところとして恐れ、うやま敬う心が阿蘇山信仰となり、健磐龍命(阿蘇大明神) に対する信仰と結びついていったことは容易に考えられる事なのです。 このような信仰が中央政府とのつながりを深くしました。 国の政治上の大きな出来事のよい前ぶれとしてとらえられた神霊池の変化の記録となったのがこの図なのです。(四十六頁) ふもとぼうち止こつ山岳信仰(阿蘇山信仰) は後に修験道となり、麓坊中 (現在の阿蘇町黒川)には衆徒方二十妨、行者方十七坊の坊舎が立ち並ぶまでになりました。また、山伏は、衆徒方と行者方に分かれ、五十とも六十ともいわれる席に住みました。

 ですから、当時は少なくとも八十から九十を越えるお寺が栄えていたわけです。しかし、衆徒方・行者方はお互いに反目し合い争いごとが絶えませんでした。西巌殿寺というお寺のあるあたりは、坊中といいますが、阿蘇山上の坊中、古坊中に対して麓坊中と呼ばれたのです。古坊中は大友氏の兵火に焼かれ消滅したとも伝えられていますが、はっきりしていないようです。 明治五年(1872年) の修験道廃止令により各坊は廃寺となりました。もともと、三十七坊全体をさして西巌殿寺と呼んでいたのですが、各坊がなくなった時、葦北郡田浦町・法雲寺をここに移し、阿蘇山西巌殿寺という名を復活させたのです。

「阿蘇奇瑞記」文永七年(一二七〇)から建武二年(一三三五)までの噴火の状況、中でも奇瑞とされたものが集めてあると考えられる。


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