10 阿蘇則高と浜城
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10 阿蘇則高と浜城

                   

 阿蘇則高の頃、阿蘇家は阿蘇、益城(ましき)、飽託(ほうたく)、宇土の五郡八千町を治めておりました。                   

阿蘇谷のほぼ中央部にある二辺塚(にべづかにえづか)(贅塚)に浜城(はまやかた)を築き、住まいを浜の館と呼びました。二辺塚の回りは牛馬の入れない牟田(むた)地と呼ばれる沼地だったのです。田川、甲賀、下原、折戸、千町、等はみな牟拍という名がついており、人や馬がたやすく通れない湿地だったのです。

 その頃は、武士の勢力がだんだん強くなっていく時代でした。阿蘇家は火をはく山、

 阿蘇をうやまう信仰のおかげで中央(大和朝廷)に大変信頼されておりました。

 そのため、勢力をだんだん強くしていきました。 五郡八千町を守るためには、武士の力を強め、城を築かねばならなかったのです。 その後、阿蘇には大友氏や島津氏が攻めてきました。 戦いの結果、その度に城や館が変わったのです。

 浜の館には、お営も建てられており、阿蘇神社七の宮・新彦神、八の宮・新比嘩神、

九の宮・若彦神が祭られています。

 


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