12 「失村社」と「矢島」
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12 「失村社」と「矢島」

 健磐龍命は阿蘇谷の水を流し出して豊かな田畑をお開きになりました。

 この大仕事の後、ご自分の屋形を決めるために手野の高みから空高く矢を放ったのです。

 矢は南の方に飛んで行きました。矢の落ちたところを宮居と定め、命の本拠地となったのです。命の屋形の回りには、家々が集まって建ちました。そこが、矢村です。

ムラというのは一つの集まりを指している言葉でしたから、矢の落ちた村を意味します。

 今、矢村社と呼ばれるやしろには、命の放たれた矢がまつってあるといいますが、氏子の人たちに話を聞くと、どこにも見当たらないとの返事でした。

 ここを中心に村や町が出来ていきました。今村は矢村社のすぐ隣ですが、今すぐ村ができたというので、付けられた名前だと言います。内牧近くの今町も同じです。

 阿蘇町にある西町も、宮地の矢村の西にできた町なので西町というのです。命の二番目の御子誕生の時にもやはり矢を射られ、坂梨の矢島に矢が落ちました。

その南側の平地に阿蘇津媛の産所を設けられたので、ここを産の平といいます。産さんと呼ばれる産土( うぶすな)神社には、お乳がたくさん出ますようにと、お祈りする人達が今でも後を絶たないといいます。今では、馬場部落の人々が社を守っておられ、このあたり、外輪山滝室坂の谷間には豊かな山清水がわきでており、神石、高城、浄土寺、木喰仏、大山寺跡などと神話・伝説・歴史に関わる豊後街道歴史の道に沿って、昔を今に語り伝えているのです。

 産土神社は「産神社」また「産さん」などと呼ばれ人々に親しまれている。


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