14 「満願寺と北条時定」
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14 「満願寺と北条時定」

一二七四年(文永十一年)モンゴルという国から二万五千人もの兵が九百余りの船で日本に攻めてきました。 国をあげての戦いとなりましたが、ちょうど台風の時期と重なったため敵の船は多くを失い、残った船も命からがら逃げ帰ったのです。                  

 時の執権(しっけん)北条時報の弟に当たる北条時定は、鎮西探題(ちんぜいたんだい)として九州に来ていました。

そこで時定は、南小国に満願寺という真言宗のお寺を建てました。今度は、前よりも大勢のモンゴル軍が攻めてくるにちがいないと、ここで、敵国退散のお祈りをするというものでした。しかし、一つには坊中にある天台宗の西巌殿寺に対抗する寺として建てたものでもありました。 第二回のモンゴル軍の襲来は一二八一年(弘安四年)の夏、約十四万の兵と、四千余りの兵船でした。この時も、前回同様、台風がやってきました。阿蘇神社や満願寺でのお祈りも盛んに行われたことは勿論です。

モンゴル軍はまたもや大敗して逃げ帰りました。 国難を乗り切る思いを神や仏にゆだねるという事は、国の政治にとって大切な役割をもっていた時代、阿蘇神社や満願寺は国の運命さえも握っていたといえるかも知れません。

 満願寺には国指定の重要文化財が数多く残されています。中でも、絹本着色、北条時宗像、同じく北条時定像、そして満願寺文書などは貴重な資料として、満願寺宝物庫に大切に保管されています。この外、木造地蔵菩薩立像、同じく昆沙門天立像などもあり、満願寺の古い歴史を物語っているのです。

 南小国町満願寺境内にある北条氏の基

 (北条 時定、、定宗 随時(ゆさとき)三代)


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