民話 56〜60
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56

 なばと殿様

57

 なばの泣き堰

58

 水乞い鳥

59

 黒川の河童               

60

 左京が橋

56 なばと殿様

 

 昔、なばというあだ名の男が阿蘇山のふもとの村に住んでおりました。なばは、力の強いことで知られていましたが、泣くと、とてつもない力が倍も倍も出てくるふしぎな男でした。

 この男のおっかさんが亡くなった時のことです。男はお葬式の料理につかうなばをとりに、うら山の雑木林にやってきました。雨上がりの林の中では、よくなばが育つのです。なばというのは、きのこのことです。 阿蘇の野山には、多くの種類のなばが見られます。クヌギナバ (ナラタケ)やハツタケ、シメジ、ヒラタケなどは、なばの中でもなじみが深く、おつゆの具としても恰好(かっこう)のものでした。男は、そんななばを探しにやって来たのです。あちこち林のなかを探し回っているうちに、立ち枯れの大木に、たくさんのなばが、鈴なりに生えているのを見つけました。

 そこで、いちいちつみ取るのはめんどうくさいと、男は大木を根ごとスボンと引き抜いて、家にもって帰ったのです。どんなに力の強い男だからと言ったって、どうしてこんなに大きな木が、たった一人で引き抜けたのでしょうか。

 そうです。男は泣いていたのです。おっかさんとの長の別れを惜しみながら泣いていたのです。そして、泣くたんびカが出ました。だからどんなに大きな木でも平気でした。男のかついだ木の枝が、立ち木に引っかかってはバリバリと大きな音をたてます。歩くたびにドシン、ドシンと足音がひびきます。村人たちは山の林を見上げながら、音のする方をうかがいました。

「一体何が起こったんだろう」音に気付いた人たちは、みな外に出てみました。

やがて、野道に男のすがたが現れました。たくさんのなばがぶらさがっている大きな木を軽々と、かついでいる男を見て、村人たちはおどろきました。

「おい、あれを見ろや。大きな木を根っこごと持って来よるぞ」 近づいてきた男を見て、これまたびっくり、びっしりとなばが鈴なりにはえています。

男の力の強いことを知っていた村人たちも、改めて男のすごい力を見直したというわけです。 なばというあだ名は、こうしてついたのです。

 力の強いなばのうわさは肥後の殿様のところにも伝わっていました。

 ある時、殿様が阿蘇にやってきました。殿様は家来に言いました。

「たしか阿蘇には、めっぽう強い力の男がいると聞いておったが、何とかという、変わった名前じゃったな」

「ははあ、それはなばという男と存じますが」

「なばとは、まこと変わった名前じゃ」

「聞くところによりますと、親の葬式の日に、山になば採りに参ったとのこと」 「なるほど、おとき(葬式がはじまる前にお客にさしあげる食事)の吸い物の具につかうなばじゃな。それでなばという名になったというか。たかが、それ程のことでなばでもあるまい」「ははあ、おおせの通りで。そのわけは、これこれしかじか・・・・・でございまする」

 殿様は早速、なばを陣屋に呼びました。「よく来てくれたな」

「これはこれは、お殿様、私のごときをお召し下さいまして、まことに有り難き幸せ」

「ほかでもない。おまえの力の強いことは聞いておった。しかし、しかとこの目で確かめぬと納得できぬ。力の強い証拠を見せてみい」

 なばは、「それでは明日の朝、殿様のおたちになられる時に来らせてもらいましょう。そん時わたしのカば見ていただくことにいたします」 おたちというのは、殿様行列出発のことです。その時、なばは一体何を見せるのでしょう。

 翌日朝早く、なばは羽織はかまでやってきました。殿様のおたちの早いことを、なばはちゃんと心得ていたのです。 殿様のかごも早くから、おたちの用意ができていました。「おう、まことに朝早くやって来たな。ところで、何を見せてくれる」殿様は、かごに乗りながらなばに話しかけました。 その言葉が終わるやいなや、なばはかごのふたを静かにしめました。それからかごの片方を一人で軽々と持ち上げました。お供の者たちは驚きの声をあげました。

 そのどよめきは何事によるものか、殿様にはわかっておりません。実にあぎやかに、そして静かにかつぎ上げたので、殿様はかごの小さな引き窓をそっと開けて外を見ましたが、何事もないように思えました。いつものとおりかごは進みます。 殿様のかごは、前に二人、後ろに二人でかつぐものと決まっているはずだから、とても一人でかつげる代物ではありません。それも、殿様の乗り心地は普段と変わりないのだから、並の力でない事はわかりきっています。何も知らない殿様は、「これこれ、なばはどうした。力の強いところも見せずに帰ってしもうたか」

そう、かごの中から聞きました。「お殿様、私ひとりで、かごをかついでおります」

 と、なばが答えました。殿様は少々おどろきました。しかし、そこは殿様のこと、ここであわててはと、 「なば、なるほどおまえのカはたいしたもんじゃ。

それで、ここからどの辺までわしをかついでいけるのかな」といいました。すると、なばは「殿様おゆるしくだされ」と一言かけてから、どんどんとかけ出したからたまりません。 殿様の行列というものは、先箱(さきぽこ)、毛やり、鉄砲などに続き、いろいろな道具を持つもの、そして殿様のかごとなります。殿様の周りには、たくさんの侍たちがしたがっています。

そこで、かけ出したかごといっしょに、みんなも走らなければなりません。

 殿様行列がかけ足などというのは聞いたことがないのです。「よいよい、もうよい、わかった。おまえのカの強いことは、はっきりとわかった。ここいらで休けいしたい」殿様は大声でわめきました。なばは一向に聞こえんふり。内の牧から、やがて千石橋にさしかかりました。「ではこの辺でちょっと一服」と、橋のらんかんに腰をかけました。殿様はやれやれ、かごの外に出て腰でものばそうかと、引き窓から外をのぞいて見ると、かごは橋のらんかんから川の上につき出されています。「なば、なば、早くおろせ。わしは目まいがして参った」 殿様のあわてぶりに、なばはニコニコしながら、わぎと片手でかごを押さえたまま腰のたばこ入れからキセルを取り出し、ゆっくりとたばこに火をつけて吸いはじめました。

 殿様はなばを試すつもりで、反対に試されてしまったというわけです。

 

57 なばの泣き堰

          

 北外輪山のふもとの村で、鹿漬川(しっけがわ)を堰とめて、田に水を引き入れる工事をすることになりました。鹿演川の水は根子岳、高岳、中岳、往生・杵島岳、そして北外輪の水も集めて流れるのですから、水かさも多く、せき止める工事はなま易しいものではなかったのです。昔のことですから、今のような機械はなくて、みんな人手にたより、工事は大がかりなものでした。 なばの力はこんな時には大変役にたちました。どうしても動かないような大きな岩もなばは三声、四声大きな声で泣き叫びながら岩をかかえました。

 大きな杭を川の中に何本も打って竹を渡し、しがらみをかけるのです。そこに岩や石を積み上げて川の水を堰き止め、そこから水は水路をつたって田んぼに導かれます。ですから、この堰は人々の暮らしを豊かにしてくれる大切なものなのです。

 なばは一生懸命に岩や石を運び続けました。なばの力がなくては、もっと日にちがかかってしまい、今年の稲つくりには間に合わなくなってしまったかも知れません。 すっかり工事が終わって、村人たちは大喜び、「さあこれで田んぼの水も世話なしばい」と、酒もりをして、堰の完成を祝ったのでした。 翌朝、昨夜のお酒のせいで、すこし頭の具合がよろしくない村人たちは、水の流れ具合を見にやって来ました。そしてさえない頭にかぶった手拭いで目頭をこすってみました。 堰(せき)の一部がこわれて水がどんどんもれているのです。もちろん水路には水は流れていきません。一番大きな石がなくなっていたのでした。

よく調べてみると、なばの運んだ石だったのです。そしてふしぎなことに、その石はまたもとのところに戻っているというのです。大石は小嵐山と呼ばれている山の中腹から運んだものでした。 なばも首をひねりながら、また川まで運んできました。 でもやっぱり、翌日はもとのところにもどっています。なばは意地になっていました。 毎日その石を運んでくるのに、翌日は山の中腹にかけ上っている大石の秘密は、どうしてもなばも、とうとうあきらめました。ほかの石を使うことにしたのです。何回も何回も泣きながら運ばれた石には、なばのなみだがどれだけ流れたことでしょうか。

なばの泣き堰の由来はこれで終わりですが、すがた形は変わっても、この堰はいつまでも残ってその役目を果たしていくことでしょう。一方、大石のほうも小嵐山の中腹にドカンと腰をすえて「わたしはここが好きなんですよ」とでもいうように、長い年月をそのはだに刻みながら、阿蘇の厳しい気候にたえ、がんこに大地に張り付いているのです。「なばの泣き石」 いつまでもお元気というところですか。

 

58 水乞い鳥(みずこいどり)

    

阿蘇の岳川(たけかわ)のほとりに、チョチュミという名の子がいました。チョチュミのうちは、お百姓さんです。チョチュミは毎日牛の世話をするのが仕事でした。お父さん、お母さんは田畑の仕事です。「牛に水をのませるのを忘れてはだめだよ」 お父さん達は、今日もそういって野良仕事に出かけて行きました。 チョチュミは遊びざかりのこどもです。でも、牛に水を飲ませるのは、絶対忘れてはいけない事でした。お百姓にとって、一番大切な牛を死なせでもしたら大変なことになるのですから・・・・ でも、チョチュミはその大事なことを忘れてしまったのでした。 一日中水が飲めなかった牛は、それがもとで体がよわってとうとう死んでしまいました。一日中水が飲めなかった牛は、それがもとで体がよわってとうとう死んでしまいまし。                                                          チョチュミは泣きながら牛を川ばたに埋めたのです。
 そして、あまり泣いたものですから、鳥になってしまいました。
 「ゴーワ、ゴーワ、キキキキ」と鳴きながら川を上り下りする水乞い鳥のことを、阿蘇では「チョチュミ鳥」と呼んでいるのです。
 「ほ−ら、チョチュミ鳥が鳴きよるばい。あしたは雨じゃろかな」おばあさんが、そういいながら空をながめてでもいたら、翌日はたぶん雨でしょうね。
 

59 黒川の河童

 

 黒川の河童たちは、下流の立野と内の牧、そして宮地のあたりに住んでいたらしいのですが、なかには山にのぽって山童(やまわろ)になった河童もいるそうです。 河童たちが、大ぜいの仲間と一緒に川をさかのぽって行く時は夜が暗くて、あまりその姿を見た人はいません。

 これは、宮地に住んでいるお年寄りから聞いた詣ですが、阿蘇山に降った雨を集めて流れる東岳川には河童がいたというのです。その人はこんな話をしてくれました。私が若い噴のことだけど、東岳川をわたる河童の話し声を聞いたことがあるんです。

 私の家は川のほとりにたっていました。だから餌を求めてやってくるサギやカワセミは、よく見かけていました。でも、河童の姿や声を聞いたことはありませんでした。 この川に河童は住めません。少し水が少ないのです。ですから山童になる河童たちが、山のほうに行く途中だったのでしょう。ある夏の真夜中のことでした。その日は、仕事のつかれで早めに寝たせいか、夜中に目が覚めてしまいました。その時です。川下の方角から、川をつたって何者かがやって来るような音が聞こえてきました。人の声のようでもあり、違うようでもありました。 はじめはずっと下のほうから、かなり大きな声を出していたようでしたが、家のそばに近づいて来ると、声はほとんど聞こえないようになって、川を静かに渡る本音だけが聞こえていました。よほど外に出て見ようかと思いましたが、もしそれが、たくさんの河童たちだったら大変なことになる、河童は馬を見ると、すぐに川の中に引き込んでしまうということを聞いていました。また人間に会うとすぐに、「すもうをとろう」と、言って組みついてくる。そして、はらわたをお尻から引き出してしまうんだ。小さい時からそう聞かされていたんで、こわくて外に出てみる気はしなかったんです。

 すると、やがてまた川上で大きな声が聞こえ始めました。人の家のそばを通る時には、むこうも用心してるのではないかと、その時思いました。あれ以来、私は河童らしい声や物音を聞いたことはありません。きっと彼らは山童になったんでしょう。今でもそう思っています

 話し終わって、そのお年寄りは、もう一つの話をつけ加えました。

 これはずっと下流のことだけど、東岳川の水は流れ下って黒川に入ります。そして、だんだんと外輪山から流れ出す水と一緒になって量がうんと増え、深いところが多くなるんです。この深いところに河童が昔から住んでいると言われていました。

 昔のことです。夏の暑いある日、子どもたちが川に水浴びにやってきました。ちょうど水遊びするのに都合よく、砂が一方の岸にたまっていました。そこにぬいだ着物を置いて、川に入るのです。

 向こう岸は、大人の背も届かないほど深いところです。そこには何本かの杭が打たれていました。子どもたちは流れに乗って、上のほうから川をななめに横切って、杭までうまく泳ぎつくという遊びをしていたのです。 泳ぎの上手な子でも油断すると、強い流れに押されて、杭につかまる事ができません。下のほうに流されてしまいます。しばらくの間、みんな楽しく泳いでいたのですが、一人の子が溺れて流されてしまったのです。大さわぎになって、村中みんなで川を探しましたが見つかりません。

 家の人たちはなげき悲しみました。そして、あんなに泳ぎのうまかったあの子が、溺れるはずはない。 これは淵(ふち)に住んでいる河童のせいだと考えたのです。

そこで、わなや綱をかけて河童をつかまえよぅとしました。河童たちは濡れ衣を着せられて迷惑なことでした。ここにいては、つかまえられて何をされるかわかりません。すぐさま山に逃げこもうとして、川を出ました。とちゅう狐に出会ったのです。

「やあこれはめずらしい。河童さん、一体あんたは、どこへ出かけるんです。こっちのほうに川はありませんよ」 「いやあ、今までの川はあぶなくてね。今から山に住もうかと思ってるんですよ」河童はわけを話しました。 今度は河童のほうが聞きました。

「狐さん、あんたこそ、里のほうへ何をしに行くのです」 「私のほうも同じようなことです。自分勝手に山に入った人間が道に迷ってしまい、迷ったのは狐にだまされたからだと言って、山狩りを始めたというわけです。私も追いまわされて、やっとのこと、ここまで逃げて来たんですよ」 そこで河童も狐も考えました。どこに住んだって同じこと、やっぱり、住みなれたところが一番だと、また元のところへと引き返していったのでした。

 

註 河童のことを熊本ではガワッパ、ガラッパ、カワトロ等と呼んでいます。地方によって、いろいろな呼び名があるのは、いかに多くの人々に親しまれているかという証拠でしょう。

 

60 左京が橋

      

 阿蘇山の火口近くに小さな谷があって、板橋がかかっていました。

 左京というおさむらいが、この橋をわたろうとしますと、一匹のへびがあらわれて、行く手をさえぎりました。

 「わしが行く手をじゃまだてするか! こしやくなへびめ」左京は、腰の刀を抜きはらい、切りつけました。 すると、にわかに空一面、黒雲がうずまき、へびは、みるみる大きくなって竜とな

りました。そして左京をにらみつけながら、空に昇っていったのでした。 左京はおどろいて、地にひれふしました。その日は、それでほかに何事もなかったのですが、左京はその後病気になり、日に日に病状がひどくなり、とうとう、死んでしまったのです。

この橋を渡ろうとするものが、悪い心を持っでいれば、通り抜けることができないと言い伝えられています。 どうしても通ろうとすれば、まげがひとりでにとけ、顔つきまで鬼のように、みにくく、ひきつってしまうというのです。

 ですから、ここを無事に通り抜けることのできた、恋人たちは、胸をはってめでたく結ばれたということです。

 人々は、その後、この橋を左京が橋と呼ぶようになったと伝えられています。

 また、この橋のさわりをなだめるために、お経を橋に写したことから、写経が橋と呼ぶのだとも言います。


 


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