谷の鶯
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  詩集「谷の鶯」より          伊 藤 直  臣  明治二十五年十二月二十一日宇土町に生る。四 十五年上京、早稲田大学文科予科に学ぷ。 大正三年人見東明氏の知遇を得読売新聞入社また 同氏主宰の文芸雑誌「剣道」の客員となり初めて 自作の詩を発表す。氏の恩顧を蒙ること今日まで 甚大である。大正五年国七年の間日本電報通信社 記者。これより先大正二年千家元麿氏を知る。氏. の純粋素朴然も品位ある性格に痛く感銘し、その 詩の無形式で未完成で自由奔放なるを愛す。同年 より高村光太郎氏の知遇を受く。高村氏の完成さ れた詩の強大さと豊富さとは私の生涯の尊敬とな る。  大正七年福士幸次郎氏を知る。氏の人情に厚く 正義忙強く天才的詩人型の人間牲とその詩の叙情 的で激情的で厳粛なる古典調の秀麗さに大なる敬 意と感動を致す。私は福土、千家、高村三氏の芸 術に培われて漸く自己の詩道を看出したかのよう である。大正八年同十年の間美術雑誌「現代の美 術」在社編集者として日本美術界の刷新を企画せ るも目的を達せず、同十年家事の都合にて故山に 帰る。  爾来田園に起臥し半農生活の間に詩作画作に耽 る。昭和七年同十二年まで富士山麓を転住しつつ 旦夕霊峰の美を讃う。以上は簡単ながら文に関する る略歴を挙げた。   (第一詩集「火の鶯」巻末の略歴より)  かかげる「五月阿蘇」は、昭和二十六年たまた ま坂梨古町の市原宅に滞在して絵の制作をされる 間に生れたものである。私はその夜紡ねてまだ草 稿の詩を拝見し、話の中で「絵も彫刻だ」といわ  れたのが、印象に深い。   第二詩集は「天然と人」。伊藤洋画研究所を主  宰。絵にも詩にも阿蘇を取材されたものが多い。

 

    針葉樹の林層、 山に小鳥啼き、

   牧場の青草目も鮮かに、 その外輪山に連るスロープに、

 百年の松一株ひょうひようと鳴る。

 大山祇命の碑石その下にあり  風雨霜雪の時劫を貫いて、

  黙々この山野のすべてを知る  牛を曳き牛に乗つてゆく村人の、

  子々孫々をここに見守り  天然と人との営みを司る。

  高岳は雲にかくれ  根子も亦その頂を没す。

  風あたつて噴煙低く、 咫尺にヨナを飛ばす

 高原の情景やゝ穏かならず、 丘を追い、丘を越え、 緑一色の広莫を行く。

 根子岳いよいよ近く、  眺望の最短距離にあり。

 その尾根奇しく逞しく、  これを見 これを促へんとして造型に迷ふ。

  自然は見るべし、 見るを極むべし、

これを得ずして造る者あるべからず。

余はいま根子のトルソーを心に抱いて、 触覚し愛撫し、

わが五体の構造をその手に探る。

山雨点々 郭公切りに鳴き、 嶺を渡る風雲急なり。  

               (昭二六、五、二八)