桶の底
ホーム 上へ

 桶 の 底

           小 杉 放  庵

 小杉放庵(ほうあん)明治十四年生まれで昭和  十九年没した画家.栃木県生。前号未醒。本名国  太郎。春陽会創立会員。国木田独歩と親交。画報
  通信員として日露役に従軍。田岡嶺雲らと交わり  社会主義運動にも接近。「陣中詩篇」は反戦詩集 として有名。他に「漫画」 「天地」歌集「山居
 「石」 などの著もある。   油彩に上る東洋画的表現を試み、代表作忙「山
幸彦」東大講堂の壁画などがある。芸術員会員で あった。(現代日本文学大事典) 「桶の底」は昭和九年に刊行された、随筆集「景勝の九州」から抜すいしたもの。尚この中にス ケッチ「坂梨」があり、滝室坂を描いている。

 波野駅のあた、りから、左の方の草原を突き破って出たよぅな、恐ろしく大きな岩の鉾が、時々頭をさし山します。阿蘇正岳中の最も怪寄なもの、根子岳の天狗岩です。
つまりこの平明無人の草原の景色が、今まさに大変化を示さんと.する予告と思えばよろしかろう、汽車は次第に登り行く、さて忽然としてトンネル、又トンネル、トンネルを出外れると、驚くべきかな路の左右はも早彼ののた少のたカの草の海ではありません。直下に横わるものは大いなる空間、此の空間に臨みつつ、汽車は、めくるめくばかりの外輪山の絶壁の突端をば、むかでの如くに 歩み下る、大いなる空間の下に、桶の底のようになって、阿蘇の火口原は、展開している、中央には天を焼くばかりの黒煙、それを地神の香煙とすれば、大香炉となって、煙の下に阿蘇の五岳、各々其奇を争っています。彼の今 迄経来ったのたりのたりの高原は、前代の大阿蘇の裾野で、学者は、此の梶野の線をば、外輪四方から延長し来って、五岳のはるか上空に到って結び合わせ、そこに彼の東海道の富士山上りも、或は高大なるべき、過去の大 火山の輪郭を究め得て居ります。 汽車は絶壁を下り尽して、先づ宮地の駅に着くが、その絶壁の間、線路とやゝ並んで、一条の古道急坂をなして肥後と豊後とをつなぐ、坂梨峠といいます。大阪に阪なし、坂なしに坂ありなどの土諺あつて、行人難渋の処、近頃自動車の便、いづ方も多くなったが此の坂ばかりが それが用いられず、汽車開通までは、交通の大きな障りであった由。