予の詩と文章
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予の詩と文章

           林 田 亀太郎

 林田亀太郎(雲梯)は、文久三年八月、熊本に生れた。園田太色の高弟であることは「百年の校史」の中 で詳しく述ペた。次にかかげた文章は、「文芸春秋」昭和二年一月号に書かれたものを、その後十数年を経て、全く偶然な機会に見出したものである。それを覚えていたので東京にいた教え児の大学生が、本社に行って写してくれたものである。 文はやや古いが、名文とはこんなものという見本   のような気がしてならぬ。読む度に滋味津々たる を覚える。 尚林田は書記官長を辞して後ほ、東京都選出の 衆譲院議員となり、更に東京毎夕新聞主筆を勤め た。著に「明治政党史」がある。この文を書いた 発表の年十一月没、六十五才。師太色に先立つこ と一年であった。

 予は今日は少しも詩を作らぬ。作ろうと思っても昨年 のように忙がしくてはとても出来ぬ。朝は大低三時前後 に起きて(予の早起きは数十年来の事で周知の事実だ) 其日に片付けねばならぬ原稿だけでもかなりあるし、そ れに死ぬ迄にほ是非残しておかねばならめ著述の準備を しなくてはならず、若い人達に負けぬ為には東西の新刊 書籍にも一通り眼を通して置く必要もあり、其の上やれ 講演だ、やれ遊説だと引廻されるのでは悠々風韻を弄ぷ 余裕はない。余裕がないばかりではない。聊か詩を作ら ない理由がある。実は予が幼少熊本に在りし頃、恩師か ら詩作を禁じられたのである。

予の幼少の時代には小学校というものはなかったが、 明治六年(数え年の十一)其の居住地(熊本の新町一丁 目) から市外なる本山村の竹崎茶堂先生の日新堂に通っ た (此の日新堂の北東は後に分離して本山小学校となつ た)。予は二年足らずで小学を卒業し南寮(中学)に進 み、十三にして始めて文章を書く事を教わった。西南の 役に際し、上田休平が同様の士族に対し発したる檄文を 観、憤慨に堪えず、大義名分論を草して知人に頒った事 もある。此年の秋南東の教頭園田太邑先生が阿蘇の坂梨 に培達堂と云う義塾頭となった。 此の時予は十五であった。此時代に於ける感化は予の一 生を支配する程強いものであった。恰も嘉悦先生(氏房 )が本山村に広取校という英語の塾を開かれたので、翌 年二月予は増達堂む辞して之に入り、而して漢文学は之 を村井寛山先生に学んだ。  園田先生の文章が雅麗なるに反して貫山先生のそれは 至て地味である。予ほ短日月の間に此両極端の教育を受 けた。  

予の園田先生より受けたる感化が如何に大なりしかを 示す為、当時予の作に対する貫山先生の評二句を掲げて みる。  日く才気卓絶、文を作る篇々之に成る、故に早辛の弊  を免れず。日く子、才に任せて孝を執り、徒らに対句  を択み華を求めて実質を失う。日く林田君、文章の才  群を越ゆるものあり、只惜しむらくは強いて文を華に  せんとすと。  斯うして予は貫山先生の薫化を受けて、明治十四年の 卒業前後(十九才) においては稍々先生の賞讃を得るに 至った。日く「文才気あり、照応章をなす、字句熟達、 意至り、文至り、人の言わんと欲する処を云う、日く林 田君才気溌々、文章日を逐て進む。日も亦足らず、老輩 実に三舎を避く、この篇の如きその尤も著しきもの」と、 之は予の卒業論文に対する批評である。 一日福沢先生の著書中文章は人に了解せしむるが目的 である。故に難渋にして説明せねば意味が通ぜぬような ことは最も劣悪なもので一見して誰人にも分り易く而し て考えれば考える程味のあるものが文章の上乗なるもの である。と云う意味の一章を汲むに及んで大に感動する 所あり、此の教をもって一生の守本尊とした。  若し今日予の文章を愛読する人があって (笑う勿れ、 人なきに非ぎるべし) 平易に、簡明に書かれてあると気 づかれたならば、それこそ福沢先生の賜であると云えよ う。

  明治二十年予は帝大を出て、井上毅氏の配下となるや 氏は予に対し、君の文章は非常に簡潔である。是は報告 文としては上乗だが、時に放胆文を作らないと遂には雄 大なる作が出来ぬようになって終うと戒めたがが、刀筆の 吏たる三十年、遂に此の教に服する能わざるは慙愧にた えない。予が培達堂に至る間、予は詩を作ることを覚え、 広取校に入ってからも毎週、一二篇を草して玉斧を園田 先生に乞う事忙していた。  すると明治十二年の春、何故か嘉悦先生を通して詩を 作ることを厳禁すとの通知が来た。驚いてその故を嘉悦 先生に伺った。先生日く 阿蘇の園田から細々の手紙が 来た、そこに日く、林田は詩の天才である、もし充分に 研磨すれば必ず立派な詩人になるであろう、併し林田を 詩人にするは惜しい、聞くが如くんば林田が従事してあ る学課は、通常の人が全力を挙げるも尚全きを朋す可か らず、然るにその困難なる学課の時間を割いて作詩に耽 るは林田として二兎を追うに均し、願くば林田をして詩 人たらしめるよりは社会に活動せしむる人物たらしめた い、これは林田の為なり、邦家の為なり、と思う。御同 意ならば、今より林田の作詩を封じて戴きたい。とあり と 説明せられて予は驚いた。予は作詩に少しの苦心もな い、然しそれ程に思召すならと、先生の芳志に従い断然 詩鶴含英をなげうち去った。幼時の詩稿存するもの約首篇、もとより見るに足るものなしといえども是は予が広  取校入学以来(予の十五才の秋より十七才の春まで)一  年の間K作つたもので、今俳函中にあり、茲に一二を採  録して諸君の笑覧に供しよう。      

 送   春  

 落花満地乱紛紛  林秒流鶯不耐聞   又是春光容易去  西山一角夕陽燻  

  宿 漁 家、   

 碧波萬頃月輪孤  浦口風寒秋満湖    漁火焚愁人不寝  遥聞旅雁互相呼   

 予をして詩人たらしめなかった先生達の好意は深く謝すべきも轗軻不遇齢将に六十五回の春を迎えんとして、 尚国家の為社会の為何等貢献するところなし、実にね赧顔の至りである。  併し小楠先生の言われた如く尭舜孔子は老書生である。予も亦老書生を以て修養 一日も怠るなし。春の若菜、つみ残されて秋の野に咲く花もある。予は花を愛す。併し予は春花の爛漫たるを見ることが出  来るであろうか。若し両先生の期待を裏切ってこの儘に朽ち果つる位なら、 イッソ詩人となった方が成功したかも知れぬ。  否々成功不成功は間題でない。 予は詩人ではない、併し後年予の志を知り予の為に歌 う者あらば予の望足る。   (大正十五年十二月五日 夜)