「忘れえぬ人々」 「欺かぎるの記」より 国木田 独 歩 国木田独歩は、明治四年七月千葉県銚子に生れ、 本名は哲夫。父ほ竜野藩士で 専八、母は銚子の人 淡路まんである。文壇は「独歩出生の秘密」は完全に解明されて いないとしている。のち父は山口県岩国裁判所に奉職したので、独歩も山口中学に 進学、二十年に東京専門学校英語科(後の早稲田大学)に入学し、その後洗礼を受けた。 在学中校長排斥運動に加わって退学し、帰郷した。 家は柳井に移り、二十五才 弟収二と東京に出て、「青年文学」の編集にたずさわった。 その後、大分県佐伯の鶴谷学館の教頭として一年足らずの勤めであったが、田舎教師の生活は、後の独歩を形成するのに、最も力のあつた時期といわれる。この間に阿蘇・坂梨に来た。 日清役が起ると従軍記者として「国民新開」に愛弟通信を発表した。その後北海道に渡ったり、佐々城信子と の恋愛関係のこじれがあり、結婚の後は逗子での生活。やがて信子の失踪事件起り離婚とめまぐる しい。半年にして新婚生活が破れたことは、精神的打撃が大きく、東京郊外渋谷村に弟と寂しく暮 らした。武蔵野を散策し花袋・柳田国男らと親交を結び、文学によって失意から脱しようと決意す る。花袋と日光の寺にこもり処女作「源叔父」を書いた。「欺かざるの記」はここで終るが、波乱 んの前半生の記録で、独歩の人間形成を探るのに重要な意義をもつ日記文学である。 三十一年に榎本治と結婚「忘れえぬ人々」などににより、浪漫主義はようやく花を開いた。 しかし生活は困窮し、星 亨 西園寺公望公に近づいたり、三十五年頃には鎌倉に移っている。 写実的な傑作の生れた一年である。三十八年七月「独歩集」を出版、これで自然主義の先駆者としての地 歩が定まったが、健康はむしばまれつつあった。 三十九年「運命」を刊行して文壇の地位は確立した。これを最頂点として健康も創作力も落ちるが、 未完のまま絶筆となった「渚」は、晩年の心境が深くあらわれ、独歩文学の最後の成熟を示してい る。四十一年二月に茅ヶ崎南湖院に入院、六月二十三日逝去。彼の文名は死後ますます高まった。 近年も「国木田独歩全集」全十巻が学習研究社より刊行された。 (現在日本文学事典)かかげた 「忘れえぬ人々」 は文庫本にも、必らずのっています。原文をぜひ味読して下さい。 坂梨に泊つた独歩 ( 一) 国木田独歩は、明治二十七年一月十一日、坂梨に泊っている。どこに泊ったのか分らないい。これを知ったのは もう十年も前に坂梨の児童図書「国木田独歩(偕成社)」を詠んだ時である。小学校の図書館でも、オロソカには できない、ということである。 五十才前後の人なら、覚えているだろう。高等小学の国語読本農村用に、独歩の 「山里の夕」 というのがあっ た。あれは彼の名作「忘れえぬ人々」 の第二話を、適当に教科書向きに焼き直し、編集者がそれらしい題をつけ たまでである。あの中で「宮地をこよいのあてに歩いた」といっているが、実は坂梨に泊っている。 これは日記の中にも「十一日阿蘇山に登る 此日坂梨に宿す」とある。「忘れえぬ人々」は、明治三十二年二月「国民之友」 (徳富蘇峰編集)に発表し、後に三十四年に出版した、 第一文集「武蔵野」に収められたのである。あらすじを 述べる。 多摩川の二子の渡に近い、溝口の宿場の亀屋という旅 人宿の一室。大津という作家と画家の秋山が会う。大津 は「忘ええぬ人々」という、半紙十枚ばかりの原稿を、 もっていた。画家の秋山が、それを拾い読みする。大津 は{読むよりか、僕が話した方がよさそうだ。」といっ て話し始める。 その一は瀬戸内海の、ある淋しい島かげで見た男、ひ き潮のあとに、頻りに何かを拾っていた。 その二は阿蘇宮地の馬子唄の若者 その三は四国の三津が浜の琵琶僧 その中で、阿蘇の場面を、もっとも詳しく述べている。 そして大津は秋山に 「忘れえぬ人は、必ずしも忘れて叶うまじき人にあら ず−親とか子とか、教師先輩の如きは、つまり単に忘れ えぬ人とのみはいえない。忘れて叶うまじき人といわな ければならない。・・・恩愛のちぎりもなければ義理もな い、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしま ったところで、人情をも義理をも欠かないで、しかもつ いに忘れて了うことの出来ない人がある」というのであ る。 第二話を少し詳しく述べてみよう。 僕は朝早く弟と共にわらじ、きゃはんで元気よく熊本 を立った。その日はまだ日が高い中に立野という宿場ま で歩いて、そこに一泊した。次の日のまだ登らないうち 立野を立って兼ての願いで、阿蘇山の白煙を目がけて、 霜をふみ桟橋を渡り、路を間違えたりして漸くおひる時 分に、絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは、一時過 ぎでもあったろうか。・・・・その荒涼たる、光景は、筆も 口も叶わない、これを描くのは、先づ君の領分だと思う。 (彼ら二人はあまりに寒いので、一度茶屋に引返し、 食事をとって、また火口に向った。) その時は日がもう余程傾いて、肥後の平野を立てこめ ているモヤが、焦げて赤くなつて恰度そこに見える旧噴火 口の断崖と同じような色に染った。円錐形にそぴえて 高く群峰を抜く九重嶺の裾野の高原数里の枯草が、一面 に夕陽を帯び、空気が水のように澄んでいるので、人馬 の行くのも見えそうである。天地寥廓 而も足もとでは 凄じいひぴさをして、白煙もうもうと立のぼり真直ぐ に空をつき、急に折れて高岳をかすめ天の一方に消えて 了う。荘といわんか美といわんか惨といわんか、僕らは だまったまま一言も出さないで、しばらく石像のように 立っていた。此の時天地悠々の感、人間存在の不思議の 念などが心の底から薄いてくるのは自然のことだろうと 思う。 ところでもつとも僕らの感を惹いたものは九重嶺と阿 蘇山との間の一大窪地であった・・・・・僕らがその頃、疲れ た足を踏みのばして罪のない夢を結ぷを楽しんでいる、 宮地という宿駅も此の窪地にあるのである…・・・。 下りは登りよりかずっと勾配がゆるやかで、山の尾や 谷間の枯革の間を蛇のようにうねっている路を辿って急 ぐと、村に近づくにつれて枯草を着けた馬をいくつかお いこした。あたりを見ると彼処此処の山尾の小路をのど かな鈴の音夕陽を帯びて人馬幾個となく麓をさして帰り 行くのが教えられる。馬はどれもみな枯草を着けている ・・・・日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いで、終いには 走って下りた。 (これから先が、教科書の場面である。ここに事いた のは、原文を多少、現代風に字句を改めていることを、 ことわっておく。例えば「枯草を着けた馬を幾個か逐こ した」を「・・・馬をいくつかおいこした」のように。) (二) 教科書にのせられた、「山里の夕」の原文は左の通り である。 村を出七時はもう日が暮れて夕闇ほのぐらい頃であっ た。村の夕暮のにぎわいは格別で、壮年男女は一日の仕 事のしまいに忙がしく、子供は薄暗い垣根の蔭やかまど の火の見える軒先に集まって、笑ったり歌ったり泣いた りしている。これは何処の田舎も同じことであるが、僕 は荒涼たる阿蘇の草原から駈け下りて突然、この人寰に 投じた時ほど、これらの光景に博たれたことはない。二 人は疲れた足をひきずって、日暮れて路遠きを感じなが らも、懐かしいような心持で、宮地を今宵のあてに歩い た。 一村はなれて林や畑の間を暫らく行くと、日はとっぷ り暮れて二人の影が、はっきりと地上に印するようにな った。振向いて西の空を仰ぐと、阿蘇の分脈の一峰の右 に、新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に、澄んで青味 がかった水のような光を放っている。二人は気がついて 直ぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真白に立ちのほる噴煙が、 月の光を受けて灰色に染って碧るりの大空を衝いている さまが、いかにも凄じく又美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸とその欄に倚っか かって疲れきった足を休めながら、二人は噴煙のさまの 様々に変化するを眺めたり、聞くともなしに村落の人語 の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今 来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して 虚空に響き渡って次第に近づいてくるのが手に取るよう に聞こえだした。 暫くすると朗らかな澄んだ声で、流して歩るく馬子唄 が、空車の音につれて漸々と近づいて来た。僕は噴煙を 眺めたままで耳を傾けて、この声の近づくのを、待つと もなしに待っていた。 人影が見えたと思うと「宮地やよいところじゃ阿蘇山 ふもと」という俗謡を長く引いて、恰度僕らが立ってい る橋の少し手前まで流して来た。その俗謡のこころと悲 壮な声とがどんなに僕の情を動かしたろう。二十四五か と思われる屈強な若者が、手綱をひいて僕らの方を見向 き軒しないで、通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。 夕月の光を背にしていたから、その横顔もはっきりとは 知れなかったが、その逞しげな体の黒い輪廓が今も僕の 目の底に残っている。 僕は若者の後影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙 を見あげた。「忘れえぬ人々」の一人は、すなわちこの 若者である。 これで第二話が終る。 独歩兄弟が山を下りて、坊中に出、西町を通って、岳 見橋に着いての情景である。ところで、ここに歌われた 馬子唄は、ちょつと尻切れであるが、これは約四十年前に 山口白陽の発見によって宮地よいとこ阿蘇山ふもといつも煙をアリャ見ちょつて というのであることが分った。 独歩は「忘れえぬ人々」 の最後で、こういっている。 「そこで僕は今夜のような晩にひとり夜更けて燈に向 っていると、この生の孤立を感じて堪え難いほどの衷情 を催おしてくる。その時僕の主我の角が、ぽきり折れて 了って、何んだか人懐かしくなって来る。色々の古い事 や友の上を考えだす。その時油然として僕の心に浮んで くるのは、すなわちこれらの人々である。そうでない、 これらの人々を見た時の周囲の光景のうちに立つ、これ らの人々である。われと人と何の相違があるか、みなこ れ此の生を天の一方地の一角にうけて、悠々たる行路を 辿り、相携えて無窮の天に帰る者ではないか・・・。 僕はどうにかしてこの題目で、僕の思う存分に書いて みたいと思っている。僕は天下必ず同感の士あることと 信ずる。 」 この好短篇の眼目となることばである。 さて、この阿蘇の旅はどうして行われたのであるか。 当時彼は、大分県佐伯の鶴谷学館の教頭であり、冬休み を利用して、山口県柳井に帰省した。そして佐伯に帰る に際して、弟収二を伴ない九州横断の徒歩旅行を企てた のである。正月三日に柳井を出て、門司から汽車で縛多 太宰府を経て四日夕に熊本に入った。 熊本では下益城郡杉上村に、東京専門学校時代の親友 を訪問したりして、七日間ゆっくり過している。九日に は友人二人を入れて四人で写真を撮った。 日記「欺かざるの記」 (明治二十六年二月二十三才よ り二十年五月二十七才まで) によれば 十日 朝十時熊本を出発して帰路に就く。立野に宿す 立野は阿蘇山の麓に在る小駅なり、熊本を去る八里 十一日 阿蘇山に登る。此日坂梨に宿す。 十二日 坂梨を馬車にて発し竹田まで午後二時に着し 竹たより徒歩、夜に入り市場に着。 十三日 佐伯に帰る。市場と佐伯との行程十一里許り 徒歩にて帰る。見聞のこと及び感少なからず追い追 い記すべし 横断旅行の最大の目的は、実に阿蘇登山にあったので ある。こうして彼は一月十一日、阿蘇山頂をきわめてそ の気にふれ、下つては岳見橋上で忘れえぬ馬子を得たの であつた。 今日独歩の本を手にしみると、ほとんどすべてのもの に「忘れえぬ人々」は収められている。この小説は独歩 の作品の中でも、名作であることは定評であるし、した がって日本文学史上に見落せぬものである。 また日記「欺かきるの記」は、樋口一葉のものと並んで 、近代日記文学の金字塔ともいわれるものである。 「 見聞のこと感少なからず追い追い記すべし」と記したが、 このことが具体化したのが、この短篇小説の第二話であ る。 坂梨の、どこかの宿において弟と二人枕を並べ、こが らしを聞きつつ、感動に満ちた今日の山旅と、馬子唄の 主なことが、胸中を去来したことであろう。 明治二十七年一円十一日は坂梨にとって、ひとつの記 憶すべき日である。 独歩は友人にあてせ書簡に、こう書いている。「或は 噴火山頭に乾坤の変移黙転の恐ろしき事実を今更の如く に直感し、或は寂漠たる高原草野、四願人なき処兄弟並 びて且つ歩み且つ語り黙し、日暮れ通遠き哀感に打たれ、 或は木賃宿に寒夢、天涯の故人を憶い・・・・ (四七年三月から五月広報一の宮) ○ 参考書 熊本女子大 山本捨三教授の論文 阿蘇町立図書館の独歩全集 |