頼 山陽
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 漢   詩

頼    山 陽

 頼山陽。一七八〇年−朱子学者。安芸(広島) 通称久太郎。春水の子。若くして素行修まらず、 一八三二年。江戸未期の の人。名は寰字は子成、 尾藤二洲、菅茶山に学ぷ。 脱藩して京で自活した。 詩文書面の名が高く文名は他を圧したが、自らは 史学を生涯の事業とした。著書「日本外史」 「日本 政記」 「通義」 「日本楽府」 「山陽遺稿」など。全集八冊がある。 「山陽詩鈔」                (アポロ百科事典)

   路は阿蘇の腰をめぐりて  阿蘇の首 (こうべ) を見ず

今朝雨はれて雲また開く  日は三峰を照らして  

皴皺(しゅんすう)をみる  一峰の尊厳これ丈人

一峰肩随してその右にあり  別に一峰の鋸牙(きょが)に

似たるあり  その左に竦立して雄秀を争う

燦然(さんぜん)我を要して  快覯(かいこう)をなさしむ

ただ恨む一笑すなわち背き走るを  岐路高低しきりに回看す

鬟髻(かんけい)出没して  なお後にあるがごとし