西遊雑記
ホーム 上へ

「西遊雑記」 より

         古 川 吉松軒

 古川古松軒は備中国下道郡新本(今の岡山県総 社市)の人で、一七二六 (享保十一年)の生れで 一八〇七年(文化四年)に没した。名は正辰。  家は代々薬種業で、かたわら医術をも施した。 年少の頃から旅行好きで、地理の学を好み各地を 歩いて、多くの本をあらわした。その中で最も世 に知られているのが、「東遊雑記」 「西遊雑記」 の二著作である。二つのうち前者は平凡杜から、 東洋文庫二七号で、小さいながら立派な本が出て いる。  「西遊雑記」はまだ刊行されてれないので写本 を解読するより他に手がない。「東遊雑記」の解 説によれば、一七八三年(天明三) 三月故郷を立 ち、山陽道から九州に渡り、東海岸を南下、豊前 豊後日向を経て薩摩に入った。−それから北上して 肥後肥前筑後筑前、そして下関から瀬戸内海を舟 行して帰った。頗る健脚である。後に坂梨を訪れ た木喰上人ほどではないらしいが、古人はまこと に性がよろしかった。 この施行記が「西遊雑記」 なのである。 スケッチを入れ、図解も施すという 念者にして器用な男であった。  写本のコピーを見ていたら「坂梨」の文字があ る。さらに写しとって、夜ふけてひそかに解読に かかった。 変体がな・平がを・片かなあり、漢 文流に読む箇所もあり、雑行することおぴただし い。が、百八十年前の阿蘇谷の人々の生活を、み ことに写している。古人の生活作文ともいえる。 四十年前に山口自陽は「阿蘇を背景とした文学」  と題して、Gkより放送した中で、これをとりあげている。  熊本上り来て阿蘇山にのほり、坊中に下り、宮 地、坂梨へ来て泊り、引返している。原文のままではなくて、やや現代風に文字を改めて、記すこ とにする。

 坂梨といふ所は肥後へ入る関所ありて、ここより往来 を改むるよし、古人の方言に大坂(むかしはこう書く) に坂なし坂梨に坂ありとも、豊後より坂梨へ入るに片坂 にて険祖の下り坂一里半、豊後の西は肥後の国よりこ高き 土地といふ 九州は南海を帯せし国にて 暖国のみと思 ひしに 阿蘇郡は冬月になれば 年によりて雪降ること 七八尺に及ぷとさへ土人各語る事なり 雪は山岳のかま へによりて積ると聞きしが さもある事にゃ 九州の内 にて雪の八尺も積ると珍らしさ事也 在家に入りよき家 を選んで止宿せしに 夏に蚊屋(帳)をつるといふ事な し 大かまどの下に青草を入れて 家内をふすべて 打 倒れ打倒れ寝る事にて 戸も壁もなく 気散じなる身の 上なり この書を見る人いつわりと思ふべけれども 筆 には書きとり難き僻地なり 寒けれども春(夏の誤りか ) を知らずとは かかる所なるべし。